元もと 慶けい 《 ぐわんぎやう 》 の 末すえ か 、 仁和にわ 《 にん な 》 の 始はじめ に あつ た 話はなし で あらう 。 どちら に し て も 時代じだい は さして 、 この 話はなし に 大事だいじ な 役やく を 、 勤めつとめ て ゐ ない 。 読者どくしゃ は 唯ただ 、 平安朝へいあんちょう と 云うん ふ 、 遠いとおい 昔むかし が 背景はいけい に なつ て ゐる と 云うん ふ 事こと を 、 知ち つて さ へ ゐ て くれれ ば 、 よい の で ある 。 ―― その 頃ころ 、 摂政せっしょう 《 せつ し やう 》 藤原ふじわら | 基もと 経けい 《 もと つね 》 に 仕つかまつ へ て ゐる 侍さむらい 《 さ むら ひ 》 の 中なか に 、 某ぼう 《 なにがし 》 と 云うん ふ 五ご 位い が あつ た 。
これ も 、 某ぼう と 書かかか ず に 、 何なに の 誰だれ と 、 ちや ん と 姓名せいめい を 明めい に し たい の で ある が 、 生憎あいにく 《 あいにく 》 旧記きゅうき に は 、 それ が 伝つて は つて ゐ ない 。 恐らくはおそらくは 、 実際じっさい 、 伝でん はる 資格しかく が ない 程ほど 、 平凡へいぼん な 男おとこ だ つたの で あらう 。 一体いったい 旧記きゅうき の 著者ちょしゃ など と 云うん ふ 者しゃ は 、 平凡へいぼん な 人間にんげん や 話はなし に 、 余りあまり 興味きょうみ を 持たもた なかつ た らしい 。 この 点てん で 、 彼等かれら と 、 日本にっぽん の 自然しぜん 派は の 作家さっか と は 、 大だい 分ちわかち が ふ 。 王朝おうちょう 時代じだい の 小説しょうせつ 家か は 、 存外ぞんがい 、 閑人ひまじん 《 ひま じん 》 で ない 。 ―― 兎うさぎ に 角かく 、 摂政せっしょう 藤原基経ふじわらのもとつね に 仕つかまつ へ て ゐる 侍さむらい の 中なか に 、 某ぼう と 云うん ふ 五ご 位い が あつ た 。 これ が 、 この 話はなし の 主人公しゅじんこう で ある 。
五ご 位い は 、 風采ふうさい の 甚 《 はなはだ 》 揚よう 《 あ が 》 ら ない 男おとこ で あつ た 。 第だい 一いち 背せ が 低いひくい 。 それから 赤鼻あかばな で 、 眼め 尻しり が 下しも つて ゐる 。 口髭くちひげ は 勿論もちろん 薄いうすい 。 頬ほお が 、 こけ て ゐる から 、 頤 《 あご 》 が 、 人並ひとなみ は づれて 、 細くほそく 見えるみえる 。 唇くちびる は ―― 一々いちいち 、 数かず へ 立てたて て ゐれ ば 、 際限さいげん は ない 。 我わが 五ご 位い の 外貌がいぼう は それ程それほど 、 非凡ひぼん に 、 だらし なく 、 出来でき 上じょう つて ゐ た の で ある 。
この 男おとこ が 、 何なん 時じ 《 い つ 》 、 どうして 、 基もと 経けい に 仕つかまつ へる やう に なつ た の か 、 それ は 誰だれ も 知ち つて ゐ ない 。 が 、 余程よほど 以前いぜん から 、 同じおなじ やう な 色いろ の 褪 《 さ 》 め た 水干すいかん 《 す ゐ かん 》 に 、 同じおなじ やう な 萎 々 《 なえ な え 》 し た 烏帽子えぼし 《 ゑぼし 》 を かけ て 、 同じおなじ やう な 役目やくめ を 、 飽きあき ず に 、 毎日まいにち 、 繰返しくりかえし て ゐる 事こと だけ は 、 確 で ある 。 その 結果けっか で あらう 、 今いま で は 、 誰だれ が 見み て も 、 この 男おとこ に 若いわかい 時とき が あつ た と は 思はおもは れ ない 。 ( 五ご 位い は 四よん 十じゅう を 越しこし て ゐ た 。 ) その 代りかわり 、 生れうまれ た 時とき から 、 あの 通りとおり 寒さむ むさう な 赤鼻あかばな と 、 形かたち ばかり の 口髭くちひげ と を 、 朱雀すざく 大路おおじ 《 す ざく お ほ ぢ 》 の 衢 風ふう 《 ちまた かぜ 》 に 、 吹かふか せ て ゐ た と 云うん ふ 気き が する 。 上うえ 《 かみ 》 は 主人しゅじん の 基もと 経けい から 、 下した 《 しも 》 は 牛飼うしかい の 童わらべ 児じ まで 、 無意識むいしき ながら 、 悉 《 ことごとく 》 さ う 信じしんじ て 疑うたぐ ふ 者しゃ が ない 。
かう 云うん ふ 風采ふうさい を 具ぐ へ た 男おとこ が 、 周囲しゅうい から 受けるうける 待遇たいぐう は 、 恐らくおそらく 書くかく まで も ない こと で あらう 。 侍さむらい 所しょ 《 さ ぶら ひど ころ 》 に ゐる 連中れんちゅう は 、 五ご 位い に対してにたいして 、 殆どほとんど 蠅はえ 《 は へ 》 程ほど の 注意ちゅうい も 払 は ない 。 有ゆう 位い 《 う ゐ 》 無位むい 《 むゐ 》 、 併せあわせ て 二に 十じゅう 人にん に 近いちかい 下役したやく さ へ 、 彼かれ の 出入りでいり に は 、 不思議ふしぎ な 位くらい 、 冷淡れいたん を 極めてきわめて ゐる 。 五ご 位い が 何なに か 云うん ひ つけ て も 、 決してけっして 彼等かれら 同志どうし の 雑談ざつだん を やめ た 事こと は ない 。 彼等かれら に と つて は 、 空気くうき の 存在そんざい が 見えみえ ない やう に 、 五ご 位い の 存在そんざい も 、 眼め を 遮さえぎ 《 さ へぎ 》 ら ない ので あらう 。 下役したやく で さ へ さ う だ と すれ ば 、 別当べっとう とか 、 侍さむらい 所しょ の 司つかさ 《 つかさ 》 とか 云うん ふ 上役うわやく たち が 頭あたま から 彼かれ を 相手あいて に し ない の は 、 寧やすし 《 むし 》 ろ 自然しぜん の 数かず 《 すう 》 で ある 。 彼等かれら は 、 五ご 位い に対するにたいする と 、 殆どほとんど 、 子供こども らしい 無意味むいみ な 悪意あくい を 、 冷然れいぜん と し た 表情ひょうじょう の 後のち に 隠しかくし て 、 何なに を 云うん ふ の で も 、 手真似てまね だけ で 用よう を 足したし た 。 人間にんげん に 、 言語げんご が ある の は 、 偶然ぐうぜん で は ない 。 従 つて 、 彼等かれら も 手真似てまね で は 用よう を 弁じべんじ ない 事こと が 、 時々ときどき ある 。 が 、 彼等かれら は 、 それ を 全然ぜんぜん 五ご 位い の 悟性ごせい に 、 欠陥けっかん が ある から だ と 、 思 つて ゐる らしい 。 そこで 彼等かれら は 用よう が 足りたり ない と 、 この 男おとこ の 歪んいがん だ 揉 《 もみ 》 烏帽子えぼし の 先さき から 、 切れきれ か かつ た 藁わら 草履ぞうり 《 わら ざうり 》 の 尻しり まで 、 万まん 遍へん なく 見上げみあげ たり 、 見下しみくだし たり し て 、 それから 、 鼻はな で 哂 《 わら 》 ひ ながら 、 急きゅう に 後ご を 向いむい て しまふ 。 それでも 、 五ご 位い は 、 腹はら を 立てたて た 事こと が ない 。 彼かれ は 、 一切いっさい の 不正ふせい を 、 不正ふせい として 感じかんじ ない 程ほど 、 意気地いくじ の ない 、 臆病おくびょう な 人間にんげん だ つたの で ある 。
所ところ が 、 同僚どうりょう の 侍さむらい たち に なる と 、 進んすすん で 、 彼かれ を 飜 弄ろう 《 ほんろう 》 しよ う と し た 。 年かさとしかさ の 同僚どうりょう が 、 彼かれ れ の 振ふ は ない 風采ふうさい を 材料ざいりょう に し て 、 古いふるい 洒落しゃれ 《 し やれ 》 を 聞かきか せよ う と する 如くごとく 、 年下としした の 同僚どうりょう も 、 亦また それ を 機会きかい に し て 、 所ところ 謂いい 《 い は ゆる 》 興きょう 言げん 利口りこう 《 きよう げん り こう 》 の 練習れんしゅう を しよ う と し た から で ある 。 彼等かれら は 、 この 五ご 位い の 面前めんぜん で 、 その 鼻はな と 口髭くちひげ と 、 烏帽子えぼし と 水干すいかん と を 、 品しな 隲 《 ひんし つ 》 し て 飽きるあきる 事こと を 知らしら なかつ た 。 それ ばかり で は ない 。 彼かれ が 五ご 六ろく 年ねん 前まえ に 別れわかれ た う け 唇くちびる 《 くち 》 の 女房にょうぼう と 、 その 女房にょうぼう と 関係かんけい が あつ た と 云うん ふ 酒さけ のみ の 法師ほうし とも 、 屡しばしば 《 しばしば 》 彼等かれら の 話題わだい に なつ た 。 その 上うえ 、 どうか する と 、 彼等かれら は 甚 《 はなはだ 》 、 性質せいしつ 《 たち 》 の 悪いわるい 悪戯いたずら 《 い た づら 》 さ へ する 。 それ を 今いま 一々いちいち 、 列記れっき する 事こと は 出来でき ない 。 が 、 彼かれ の 篠しの 枝えだ 《 ささえ 》 の 酒さけ を 飲んのん で 、 後ご 《 あと 》 へ 尿にょう 《 いばり 》 を 入れいれ て 置いおい た と 云うん ふ 事こと を 書けかけ ば 、 その 外そと は 凡 《 およそ 》 、 想像そうぞう さ れる 事こと だら う と 思ふおもふ 。
しかし 、 五ご 位い は これら の 揶揄やゆ 《 やゆ 》 に対してにたいして 、 全然ぜんぜん 無感覚むかんかく で あつ た 。 少くすくなく も わき 眼め に は 、 無感覚むかんかく で ある らしく 思はおもは れ た 。 彼かれ は 何なに を 云うん はれ て も 、 顔かお の 色いろ さ へ 変へん へ た 事こと が ない 。 黙だま つて 例れい の 薄いうすい 口髭くちひげ を 撫でなで ながら 、 する だけ の 事こと を し て すまし て ゐる 。 唯ただ 、 同僚どうりょう の 悪戯あくぎ が 、 嵩かさみ 《 かう 》 じ すぎ て 、 髷まげ 《 まげ 》 に 紙切れかみきれ を つけ たり 、 太刀たち 《 たち 》 の 鞘さや 《 さや 》 に 草履ぞうり を 結びつけむすびつけ たり する と 、 彼かれ は 笑えみ ふ の か 、 泣くなく の か 、 わから ない やう な 笑顔えがお を し て 、 「 いけ ぬ のう 、 お 身み たち は 。 」 と 云うん ふ 。 その 顔かお を 見み 、 その 声こえ を 聞いきい た 者もの は 、 誰だれ でも 一いち 時じ 或ある い ぢ らし さ に 打たうた れ て しまふ 。 ( 彼等かれら に い ぢ め られる の は 、 一いち 人にん 、 この 赤鼻あかばな の 五ご 位い だけ で は ない 、 彼等かれら の 知らしら ない 誰かだれか が ―― 多数たすう の 誰かだれか が 、 彼かれ の 顔かお と 声こえ と を 借りかり て 、 彼等かれら の 無情むじょう を 責めせめ て ゐる 。 ) ―― さ う 云うん ふ 気き が 、 朧おぼろ 《 おぼろ 》 げ ながら 、 彼等かれら の 心こころ に 、 一瞬いっしゅん の 間ま 、 しみこん で 来るくる から で ある 。 唯ただ その 時とき の 心もちこころもち を 、 何時いつ まで も 持じ 続けるつづける 者もの は 甚 少いすくない 。 その 少いすくない 中なか の 一いち 人にん に 、 或ある 無位むい の 侍さむらい が あつ た 。 これ は 丹波たんば 《 たん ば 》 の 国くに から 来き た 男おとこ で 、 まだ 柔かいやわらかい 口髭くちひげ が 、 やつ と 鼻はな の 下した に 、 生えはえ かか つた 位い の 青年せいねん で ある 。 勿論もちろん 、 この 男おとこ も 始めはじめ は 皆みな と 一いち しよ に 、 何なに の 理由りゆう も なく 、 赤鼻あかばな の 五ご 位い を 軽蔑けいべつ 《 けいべつ 》 し た 。 所ところ が 、 或ある 日ひ 何なに か の 折おり に 、 「 いけ ぬ のう 、 お 身み たち は 」 と 云うん ふ 声こえ を 聞いきい て から は 、 どうしても 、 それ が 頭あたま を 離れはなれ ない 。 それ 以来いらい 、 この 男おとこ の 眼め に だけ は 、 五ご 位い が 全くまったく 別人べつじん として 、 映るうつる やう に なつ た 。 栄養えいよう の 不足ふそく し た 、 血色けっしょく の 悪いわるい 、 間ま の ぬけ た 五ご 位い の 顔かお に も 、 世間せけん の 迫害はくがい に べそ を 掻いかい た 、 「 人間にんげん 」 が 覗いのぞい て ゐる から で ある 。 この 無位むい の 侍さむらい に は 、 五ご 位い の 事こと を 考へるかんがへる 度たび に 、 世の中よのなか の すべて が 急きゅう に 本来ほんらい の 下等かとう さ を 露つゆ 《 あら は 》 す やう に 思はおもは れ た 。 さ うし て それ と 同時にどうじに 霜しも げた 赤鼻あかばな と 数すう へる 程ほど の 口髭くちひげ と が 何となくなんとなく 一味ひとあじ 《 いち み 》 の 慰安いあん を 自分じぶん の 心こころ に 伝へつたへ て くれる やう に 思はおもは れ た 。 … …
しかし 、 それ は 、 唯ただ この 男おとこ 一いち 人にん に 、 限きり つた 事ごと で ある 。 かう 云うん ふ 例外れいがい を 除けのぞけ ば 、 五ご 位い は 、 依然としていぜんとして 周囲しゅうい の 軽蔑けいべつ の 中なか に 、 犬いぬ の やう な 生活せいかつ を 続けつづけ て 行かいか なけれ ば なら なかつ た 。 第だい 一いち 彼かれ に は 着物きもの らしい 着物きもの が 一つひとつ も ない 。 青あお 鈍どん 《 あ を に び 》 の 水干すいかん と 、 同じおなじ 色いろ の 指貫ゆびぬき 《 さ し ぬ き 》 と が 一つひとつ づつあるのが 、 今いま で は それ が 上白じょうはく 《 う はじろ 》 んで 、 藍あい 《 あ ゐ 》 とも 紺こん とも 、 つか ない やう な 色いろ に 、 な つて ゐる 。 水干すいかん は それでも 、 肩かた が 少しすこし 落ちおち て 、 丸まる 組ぐみ の 緒いとぐち や 菊きく 綴つづり 《 きく と ぢ 》 の 色いろ が 怪しくあやしく な つて ゐる だけ だ が 、 指貫ゆびぬき に なる と 、 裾すそ の あたり の いたみ 方かた が 一いち 通りとおり で ない 。 その 指貫ゆびぬき の 中なか から 、 下した の 袴はかま も はかない 、 細いほそい 足あし が 出で て ゐる の を 見るみる と 、 口くち の 悪いわるい 同僚どうりょう で なく とも 、 痩 公卿くげ の 車くるま を 牽 《 ひ 》 い て ゐる 、 痩 牛うし の 歩みあゆみ を 見るみる やう な 、 みすぼらしい 心もちこころもち が する 。 それに 佩 《 は 》 い て ゐる 太刀たち も 、 頗るすこぶる 覚さとし 束たば 《 お ぼつ か 》 ない 物もの で 、 柄え 《 つか 》 の 金具かなぐ も 如何いか 《 いかが 》 は しけれ ば 、 黒くろ 鞘さや の 塗ぬり も 剥げはげ か かつて ゐる 。 これ が 例れい の 赤鼻あかばな で 、 だらし なく 草履ぞうり を ひきずり ながら 、 唯ただ で さ へ 猫背ねこぜ な の を 、 一層いっそう 寒空さむぞら の 下した に 背せ ぐくまつて 、 もの 欲しほし さ うに 、 左右さゆう を 眺めながめ 眺めながめ 、 きざみ 足あし に 歩くあるく の だ から 、 通りがかりとおりがかり の 物売りものうり まで 莫迦ばか 《 ばか 》 に する の も 、 無理むり は ない 。 現にげんに 、 かう 云うん ふ 事こと さ へ あつ た 。 … …
或ある る 日ひ 、 五ご 位い が 三条さんじょう 坊門ぼうもん を 神泉苑しんせんえん の 方ほう へ 行くいく 所ところ で 、 子供こども が 六ろく 七なな 人にん 、 路みち ば た に 集しゅう つて 、 何なに か し て ゐる の を 見み た 事こと が ある 。 「 こま つぶり 」 で も 、 廻しまわし て ゐる の か と 思 つて 、 後ろうしろ から 覗いのぞい て 見るみる と 、 何処どこ 《 どこ 》 か から 迷 つて 来き た 、 尨犬むくいぬ 《 むくい ぬ 》 の 首くび へ 繩 を つけ て 、 打つうつ たり 殴なぐ 《 たた 》 い たり し て ゐる ので あつ た 。 臆病おくびょう な 五ご 位い は 、 これ まで 何なに か に 同情どうじょう を 寄せるよせる 事こと が あ つて も 、 あたり へ 気き を 兼ねかね て 、 まだ 一いち 度ど も それ を 行為こうい に 現げん は し た こと が ない 。 が 、 この 時とき だけ は 相手あいて が 子供こども だ と 云うん ふ ので 、 幾分いくぶん か 勇気ゆうき が 出で た 。 そこ で 出来るできる だけ 、 笑顔えがお を つくり ながら 、 年かさとしかさ らしい 子供こども の 肩かた を 叩いたたい て 、 「 もう 、 堪忍かんにん し て やり なされ 。 犬いぬ も 打たうた れれ ば 、 痛いいたい で のう 」 と 声こえ を かけ た 。 すると 、 その 子供こども は ふり か へり ながら 、 上うえ 眼め を 使し つて 、 蔑 《 さげ 》 すむ やう に 、 ぢ ろ ぢ ろ 五ご 位い の 姿すがた を 見み た 。 云うん は ば 侍さむらい 所しょ の 別当べっとう が 用よう の 通じつうじ ない 時とき に 、 この 男おとこ を 見るみる やう な 顔かお を し て 、 見み た の で ある 。 「 いら ぬ 世話せわ は やか れ た う も ない 。 」 その 子供こども は 一足ひとあし 下りくだり ながら 、 高慢こうまん な 唇くちびる を 反らせそらせ て 、 かう 云うん つ た 。 「 何なに ぢ や 、 この 鼻はな 赤あか め が 。 」 五ご 位い は この 語かたり 《 ことば 》 が 自分じぶん の 顔かお を 打つうつ た やう に 感じかんじ た 。 が 、 それ は 悪態あくたい を つかれ て 、 腹はら が 立つたつ た から で は 毛頭ないもうとうない 。 云うん は なく とも いい 事こと を 云うん つて 、 恥はじ を かい た 自分じぶん が 、 情なくなさけなく な つた から で ある 。 彼かれ は 、 きまり が 悪いわるい の を 苦しいくるしい 笑顔えがお に 隠しかくし ながら 、 黙だま つ て 、 又また 、 神泉苑しんせんえん の 方ほう へ 歩きあるき 出しだし た 。 後であとで は 、 子供こども が 、 六ろく 七なな 人にん 、 肩かた を 寄せよせ て 、 「 べつ か つかう 」 を し たり 、 舌した を 出しだし たり し て ゐる 。 勿論もちろん 彼かれ は そんな 事こと を 知らしら ない 。 知ち つて ゐ た に し て も 、 それ が 、 この 意気地いくじ の ない 五ご 位い に とつ て 、 何でなんで あらう 。 … …
では 、 この 話はなし の 主人公しゅじんこう は 、 唯ただ 、 軽蔑けいべつ さ れる 為ため に のみ 生れうまれ て 来き た 人間にんげん で 、 別にべつに 何なに の 希望きぼう も 持つもつ て ゐ ない か と 云うん ふと 、 さ う で も ない 。 五ご 位い は 五ご 六ろく 年ねん 前まえ から 芋粥いもがゆ 《 いも が ゆ 》 と 云うん ふ 物もの に 、 異常いじょう な 執着しゅうちゃく を 持つもつ て ゐる 。 芋粥いもがゆ と は 山の芋やまのいも を 中なか に 切込んきりこん で 、 それ を 甘あま 葛くず 《 あま づら 》 の 汁しる で 煮に た 、 粥かゆ の 事こと を 云うん ふ の で ある 。 当時とうじ は これ が 、 無上むじょう の 佳よ 味み として 、 上うえ は 万まん 乗じょう 《 ばん じ よう 》 の 君きみ の 食膳しょくぜん に さ へ 、 上せのぼせ られ た 。 従 つて 、 吾われ 五ご 位い の 如きごとき 人間にんげん の 口くち へ は 、 年とし に 一いち 度ど 、 臨時りんじ の 客きゃく の 折おり に しか 、 はいら ない 。 その 時とき で さ へ 、 飲めるのめる の は 僅 に 喉のど 《 のど 》 を 沾 《 うる ほ 》 す に 足るたる 程ほど の 少量しょうりょう で ある 。 そこで 芋粥いもがゆ を 飽きるあきる 程ほど 飲んのん で 見み たい と 云うん ふ 事こと が 、 久しいひさしい 前まえ から 、 彼かれ の 唯一ゆいいつ の 欲望よくぼう に な つて ゐ た 。 勿論もちろん 、 彼かれ は 、 それ を 誰だれ に も 話しはなし た 事こと が ない 。 いや 彼かれ 自身じしん さ へ それ が 、 彼かれ の 一生いっしょう を 貫いつらぬい て ゐる 欲望よくぼう だ と は 、 明白めいはく に 意識いしき し なかつ た 事こと で あらう 。 が 事実じじつ は 彼かれ が その 為ため に 、 生きいき て ゐる と 云うん つて も 、 差さ 支 《 さ し つ か へ 》 ない 程ほど で あつ た 。 ―― 人間にんげん は 、 時としてときとして 、 充たかし さ れる か 充たかし さ れ ない か 、 わから ない 欲望よくぼう の 為ため に 、 一生いっしょう を 捧げささげ て しまふ 。 その 愚ぐ を 哂 《 わら 》 ふ 者しゃ は 、 畢竟ひっきょう 《 ひつ き やう 》 、 人生じんせい に対するにたいする 路傍ろぼう の 人ひと に 過ぎすぎ ない 。
しかし 、 五ご 位い が 夢想むそう し て ゐ た 、 「 芋粥いもがゆ に 飽かあか む 」 事こと は 、 存外ぞんがい 容易ようい に 事実じじつ と な つて 現れあらわれ た 。 その 始終しじゅう を 書かかか う と 云うん ふ の が 、 芋粥いもがゆ の 話はなし の 目的もくてき な の で ある 。
✦ Peek或ある 年とし の 正月しょうがつ 二に 日にち 、 基もと 経けい の 第だい 《 だい 》 に 、 所ところ 謂いい 《 い は ゆる 》 臨時りんじ の 客きゃく が あつ た 時とき の 事こと で ある 。 ( 臨時りんじ の 客きゃく は 二宮にのみや 《 に ぐう 》 の 大だい 饗きょう 《 だい き やう 》 と 同日どうじつ に 摂政せっしょう 関白かんぱく 家か が 、 大臣だいじん 以下いか の 上達部かんだちめ 《 かん だ ち め 》 を 招いまねい て 催すもよおす 饗宴きょうえん で 、 大だい 饗きょう と 別にべつに 変りかわり が ない 。 ) 五ご 位い も 、 外そと の 侍さむらい たち に まじ つて 、 その 残ざん 肴さかな 《 ざんかう 》 の 相伴しょうばん 《 し やう ばん 》 を し た 。 当時とうじ は まだ 、 取と 食しょく 《 とり ば 》 みの 習慣しゅうかん が なく て 、 残ざん 肴さかな は 、 その 家いえ の 侍さむらい が 一堂いちどう に 集まあつま つ て 、 食しょく ふ 事こと に な つて ゐ た から で ある 。 尤ゆう 《 もつ と 》 も 、 大だい 饗きょう に 等しいひとしい と 云うん つて も 昔むかし の 事こと だ から 、 品数しなかず の 多いおおい 割りわり に 碌ろく な 物もの は ない 、 餅もち 、 伏ふく 菟うさぎ 《 ふと 》 、 蒸 鮑あわび 《 むし あ は び 》 、 干ひ 鳥とり 《 ほし どり 》 、 宇治うじ の 氷魚ひうお 《 ひ を 》 、 近江おうみ 《 あ ふみ 》 の 鮒ふな 《 ふ な 》 、 鯛たい の 楚すわえ 割わり 《 す はやり 》 、 鮭さけ の 内子うちこ 《 こごも り 》 、 焼しょう 蛸たこ 《 やき だこ 》 、 大だい 海老えび 《 お ほえ び 》 、 大だい 柑子こうじ 《 お ほか うじ 》 、 小しょう 柑子こうじ 、 橘たちばな 、 串柿くしがき など の 類るい 《 た ぐひ 》 で ある 。 唯ただ 、 その 中なか に 、 例れい の 芋粥いもがゆ が あつ た 。 五ご 位い は 毎年まいとし 、 この 芋粥いもがゆ を 楽しみたのしみ に し て ゐる 。 が 、 何時もいつも 人数にんずう が 多いおおい ので 、 自分じぶん が 飲めるのめる の は 、 いくら も ない 。 それ が 今年ことし は 、 特にとくに 、 少すくな かつ た 。 さ うし て 気き のせ ゐ か 、 何時もいつも より 、 余程よほど 味あじ が 好いよい 。 そこで 、 彼かれ は 飲んのん で しま つた 後ご の 椀わん を しげしげと 眺めながめ ながら 、 うすい 口髭くちひげ について ゐる 滴しずく 《 し づく 》 を 、 掌てのひら で 拭いふい て 誰だれ に 云うん ふと も なく 、 「 何なん 時じ に なつ たら 、 これ に 飽けあけ る 事こと か のう 」 と 、 かう 云うん つ た 。
「 大夫たいふ 殿どの は 、 芋粥いもがゆ に 飽かあか れ た 事こと が ない さうな 。 」
五ご 位い の 語かたり 《 ことば 》 が 完かん 《 を は 》 ら ない 中なか に 、 誰だれ か が 、 嘲笑ちょうしょう 《 あざ わら 》 つた 。 錆さび 《 さび 》 の ある 、 鷹揚おうよう 《 おう やう 》 な 、 武人ぶじん らしい 声こえ で ある 。 五ご 位い は 、 猫背ねこぜ の 首くび を 挙げあげ て 、 臆病おくびょう らしく 、 その 人ひと の 方ほう を 見み た 。 声こえ の 主あるじ は 、 その 頃ころ 同じおなじ 基もと 経けい の 恪勤かっきん 《 かく ご ん 》 に な つて ゐ た 、 民みん 部ぶ 卿きょう 時長ときなが の 子こ 藤原ふじわら | 利とぎ 仁じん 《 と し ひと 》 で ある 。 肩幅かたはば の 広いひろい 、 身長しんちょう 《 みの たけ 》 の 群ぐん を 抜いぬい た 逞 《 たくま 》 し い 大男おおおとこ で 、 これ は 、 ※ 栗くり 《 ゆで ぐり 》 を 噛みかみ ながら 、 黒酒くろき 《 くろき 》 の 杯はい 《 さ か づき 》 を 重ねかさね て ゐ た 。 もう 大分おおいた 酔よい がま は つて ゐる らしい 。
「 お 気の毒きのどく な 事こと ぢ や の 。 」 利り 仁じん は 、 五ご 位い が 顔かお を 挙げあげ た の を 見るみる と 、 軽蔑けいべつ と 憐憫れんびん 《 れん びん 》 と を 一つひとつ に し た やう な 声こえ で 、 語かたり を 継いつい だ 。 「 お 望みのぞみ なら 、 利り 仁じん が お 飽かあか せ 申さもうさ う 。 」
始終しじゅう 、 い ぢ め られ て ゐる 犬いぬ は 、 たまに 肉にく を 貰もらい つて も 容易ようい に よりつか ない 。 五ご 位い は 、 例れい の 笑えみ ふ の か 、 泣くなく の か 、 わから ない やう な 笑顔えがお を し て 、 利り 仁じん の 顔かお と 、 空そら 《 から 》 の 椀わん と を 等分とうぶん に 見比べみくらべ て ゐ た 。
「 お いや か な 。 」
「 … … 」
「 どう ぢ や 。 」
「 … … 」
五ご 位い は 、 その 中なか に 、 衆人しゅうじん の 視線しせん が 、 自分じぶん の 上うえ に 、 集まあつま つ て ゐる の を 感じかんじ 出しだし た 。 答こたえ へ 方かた 一つひとつ で 、 又また 、 一同いちどう の 嘲弄ちょうろう を 、 受けうけ なけれ ば なら ない 。 或はあるいは 、 どう 答こたえ へ て も 、 結局けっきょく 、 莫迦ばか 《 ばか 》 に さ れ さうな 気き さ へ する 。 彼かれ は 躊躇ちゅうちょ 《 ち うち よ 》 し た 。 もし 、 その 時とき に 、 相手あいて が 、 少しすこし 面倒臭めんどうくさ そう な 声こえ で 、 「 お いや なら 、 たつ て と は 申すもうす まい 」 と 云うん は なかつ た なら 、 五ご 位い は 、 何なん 時じ 《 い つ 》 まで も 、 椀わん と 利とぎ 仁じん と を 、 見比べみくらべ て ゐ た 事こと で あらう 。
彼かれ は 、 それ を 聞くきく と 、 慌 《 あわ ただ 》 しく 答こたえ へ た 。
「 いや … … 忝 《 かたじけな 》 う ござる 。 」
この 問答もんどう を 聞いきい て ゐ た 者もの は 、 皆みな 、 一時いちじ に 、 失笑しっしょう し た 。 「 いや … … 忝 う ござる 。 」 ―― かう 云うん つて 、 五ご 位い の 答こたえ を 、 真似るまねる 者もの さ へ ある 。 所ところ 謂いい 、 橙だいだい 黄き 橘たちばな 紅くれない 《 とう くわ うき つこ う 》 を 盛もり つた 窪くぼ 坏 《 く ぼつ き 》 や 高坏たかつき の 上うえ に 多くおおく の 揉 《 もみ 》 烏帽子えぼし や 立たつ 《 たて 》 烏帽子えぼし が 、 笑声しょうせい と共にとともに 一しきりひとしきり 、 波なみ の やう に 動いうごい た 。 中でもなかでも 、 最さい 《 もつとも 》 、 大きなおおきな 声こえ で 、 機嫌きげん よく 、 笑えみ つたの は 、 利り 仁じん 自身じしん で ある 。
「 では 、 その 中なか に 、 御ご 誘ひさそひ 申さもうさ う 。 」 さ う 云うん ひ ながら 、 彼かれ は 、 ちよい と 顔かお を しかめ た 。 こみ上げこみあげ て 来るくる 笑えみ と 今いま 飲んのん だ 酒さけ と が 、 喉のど で 一つひとつ に なつ た から で ある 。 「 … … しかと 、 よろしい な 。 」
「 忝 う ござる 。 」
五ご 位い は 赤くあかく な つて 、 吃ども 《 ども 》 り ながら 、 又また 、 前まえ の 答こたえ を 繰返しくりかえし た 。 一同いちどう が 今度こんど も 、 笑えみ つたの は 、 云うん ふま で も ない 。 それ が 云うん は せ た さ に 、 わざわざ 念ねん を 押しおし た 当のとうの 利り 仁じん に 至いたり つて は 、 前まえ より も 一層いっそう | 可か 笑えみ 《 を か 》 し さ うに 広いひろい 肩かた を ゆす つ て 、 哄笑こうしょう 《 こう せ う 》 し た 。 この 朔北さくほく 《 さく ほ く 》 の 野人やじん は 、 生活せいかつ の 方法ほうほう を 二つふたつ しか 心得こころえ て ゐ ない 。 一つひとつ は 酒さけ を 飲むのむ 事こと で 、 他た の 一つひとつ は 笑えみ ふ 事こと で ある 。
しかし 幸こう 《 さい は ひ 》 に 談話だんわ の 中心ちゅうしん は 、 程なくほどなく 、 この 二に 人にん を 離れはなれ て し まつ た 。 これ は 事こと に よる と 、 外そと の 連中れんちゅう が 、 た と ひ 嘲弄ちょうろう に しろ 、 一同いちどう の 注意ちゅうい を この 赤鼻あかばな の 五ご 位い に 集中しゅうちゅう さ せる の が 、 不快ふかい だ つた から かも 知れしれ ない 。 兎うさぎ に 角かく 、 談だん 柄がら 《 だ ん ぺい 》 は それ から それ へ と 移うつり つて 、 酒さけ も 肴さかな 《 さかな 》 も 残ざん 少しょう 《 のこり ずく な 》 に なつ た 時分じぶん に は 、 某ぼう 《 なにがし 》 と 云うん ふ 侍さむらい | 学生がくせい 《 がくし やう 》 が 、 行縢むかばき 《 むかばき 》 の 片かた 皮かわ へ 、 両足りょうあし を 入れいれ て 馬うま に 乗らのら う と し た 話はなし が 、 一座いちざ の 興味きょうみ を 集めあつめ て ゐ た 。 が 、 五ご 位い だけ は 、 まるで 外そと の 話はなし が 聞えきこえ ない らしい 。 恐らくおそらく 芋粥いもがゆ の 二に 字じ が 、 彼かれ の すべて の 思量しりょう を 支配しはい し て ゐる から で あら う 。 前まえ に 雉 子こ 《 きぎ す 》 の 炙あぶ 《 や 》 い た の が あ つて も 、 箸はし を つけ ない 。 黒酒くろき の 杯はい が あ つて も 、 口くち を 触れふれ ない 。 彼かれ は 、 唯ただ 、 両手りょうて を 膝ひざ の 上うえ に 置いおい て 、 見合みあい ひ を する 娘むすめ の やう に 霜しも に 犯さおかさ れ か かつ た 鬢びん 《 びん 》 の 辺あたり まで 、 初心しょしん 《 うぶ 》 らしく 上気じょうき し ながら 、 何時いつ まで も 空そら に なつ た 黒くろ 塗ぬり の 椀わん を 見つめみつめ て 、 多た 愛あい も なく 、 微笑びしょう し て ゐる の で ある 。 … …
✦ Peekそれから 、 四よん 五ご 日にち たつ た 日ひ の 午前ごぜん 、 加茂川かもがわ の 河原かわら に 沿 つて 、 粟田口あわだぐち 《 あ はた ぐち 》 へ 通つう ふ 街道かいどう を 、 静せい に 馬うま を 進めすすめ て ゆく 二に 人にん の 男おとこ が あつ た 。 一いち 人にん は 濃いこい 縹はなだ 《 はな だ 》 の 狩衣かりぎぬ 《 かり ぎぬ 》 に 同じおなじ 色いろ の 袴はかま を し て 、 打出うちで 《 うち で 》 の 太刀たち を 佩 《 は 》 い た 「 鬚ひげ 黒くくろく 鬢びん 《 びん 》 ぐきよき 」 男おとこ で ある 。 もう 一いち 人にん は 、 みすぼらしい 青あお 鈍どん 《 あ を に び 》 の 水干すいかん に 、 薄うす 綿めん の 衣ころも 《 きぬ 》 を 二つふたつ ばかり 重ねかさね て 着き た 、 四よん 十じゅう 恰好かっこう の 侍さむらい で 、 これ は 、 帯おび の むすび 方かた の だらし の ない 容子ようす 《 ようす 》 と 云うん ひ 、 赤鼻あかばな で しかも 穴あな の あたり が 、 洟はな 《 はな 》 に ぬれ て ゐる 容子ようす と 云うん ひ 、 身み の ま はり 万端ばんたん の みすぼらしい 事こと | 夥 《 おび た だ 》 し い 。 尤ももっとも 、 馬うま は 二に 人にん とも 、 前まえ の は 月毛つきげ 《 つき げ 》 、 後ご の は 蘆あし 毛け 《 あし げ 》 の 三さん 歳さい 駒こま で 、 道みち を ゆく 物売りものうり や 侍さむらい も 、 振ふ 向いむい て 見るみる 程ほど の 駿足しゅんそく で ある 。 その後そのご から 又また 二に 人にん 、 馬うま の 歩みあゆみ に 遅れおくれ まい として 随ずい 《 つ 》 い て 行くいく の は 、 調度ちょうど 掛かけ と 舎人とねり 《 とねり 》 と に 相違そうい ない 。 ―― これ が 、 利り 仁じん と 五ご 位い と の 一行いっこう で ある 事こと は 、 わざわざ 、 ここ に 断ることわる まで も ない 話はなし で あらう 。
冬ふゆ と は 云うん ひ ながら 、 物もの 静せい に 晴れはれ た 日ひ で 、 白けしらけ た 河原かわはら の 石いし の 間ま 、 潺湲せんかん 《 せん くわ ん 》 たる 水すい の 辺あたり 《 ほとり 》 に 立枯れたちがれ て ゐる 蓬よもぎ 《 よ もぎ 》 の 葉は を 、 ゆする 程ほど の 風かぜ も ない 。 川かわ に 臨んのぞん だ 背せ の 低いひくい 柳やなぎ は 、 葉は の ない 枝えだ に 飴あめ 《 あめ 》 の 如くごとく 滑なめら かな 日び の 光りひかり を うけ て 、 梢こずえ 《 こずゑ 》 に ゐる 鶺鴒せきれい 《 せき れい 》 の 尾お を 動かすうごかす の さ へ 、 鮮 か に 、 それと 、 影かげ を 街道かいどう に 落しおとし て ゐる 。 東山ひがしやま の 暗いくらい 緑みどり の 上うえ に 、 霜しも に 焦げこげ た 天鵞絨びろうど 《 びろう ど 》 の やう な 肩かた を 、 丸々まるまる と 出しだし て ゐる の は 、 大方おおかた 、 比叡ひえい 《 ひえ い 》 の 山やま で あらう 。 二に 人にん は その 中なか に 鞍くら 《 くら 》 の 螺鈿らでん 《 らでん 》 を 、 まばゆく 日ひ に きらめか せ ながら 鞭むち を も 加か へ ず 悠々ゆうゆう と 、 粟田口あわだぐち を 指しさし て 行くいく の で ある 。
「 どこ で ござる か な 、 手前てまえ を つれ て 行くだり つて 、 やら う と 仰せおおせ られる の は 。 」 五ご 位い が 馴れなれ ない 手て に 手綱たづな を かいくり ながら 、 云うん つ た 。
「 すぐ 、 そこ ぢ や 。 お 案じあんじ に なる 程遠くほどとおく は ない 。 」
「 すると 、 粟田あわた 口辺こうへん で ござる か な 。 」
「 ま づ 、 さ う 思はおもは れ た が よろしから う 。 」
利とぎ 仁じん は 今朝けさ 五ご 位い を 誘ふさそふ のに 、 東山ひがしやま の 近くちかく に 湯ゆ の 湧いわい て ゐる 所ところ が ある から 、 そこ へ 行かいか う と 云うん つて 出で て 来き た の で ある 。 赤鼻あかばな の 五ご 位い は 、 それ を 真しん 《 ま 》 に うけ た 。 久しくひさしく 湯ゆ に はいら ない ので 、 体からだ 中ちゅう が この間このかん から むづ 痒かゆ 《 が ゆ 》 い 。 芋粥いもがゆ の 馳走ちそう に なつ た 上うえ に 、 入湯にゅうとう が 出来れできれ ば 、 願ねがい つて も ない 仕合せしあわせ で ある 。 かう 思 つて 、 予 《 あら かじ 》 め 利とぎ 仁じん が 牽かひか せ て 来き た 、 蘆あし 毛け の 馬うま に 跨またが 《 また が 》 つた 。 所ところ が 、 轡たずな 《 くつ わ 》 を 並べならべ て 此処ここ まで 来き て 見るみる と 、 どうも 利り 仁じん は この 近所きんじょ へ 来るくる つもり で は ない らしい 。 現にげんに 、 さ う か うし て ゐる 中なか に 、 粟田口あわだぐち は 通りとおり すぎ た 。
「 粟田口あわだぐち で は 、 ござら ぬ のう 。 」
「 いかにも 、 も そつ と 、 あなた で な 。 」
利とぎ 仁じん は 、 微笑びしょう を 含みふくみ ながら 、 わざと 、 五ご 位い の 顔かお を 見み ない やう に し て 、 静せい に 馬うま を 歩まあゆま せ て ゐる 。 両側りょうがわ の 人家じんか は 、 次第にしだいに 稀まれ に なつ て 、 今いま は 、 広々ひろびろ と し た 冬ふゆ 田た の 上うえ に 、 餌えさ を あさる 鴉からす 《 からす 》 が 見えるみえる ばかり 、 山やま の 陰かげ に 消しょう 残ざん つて 、 雪ゆき の 色いろ も 仄 《 ほのか 》 に 青くあおく 煙けむり つて ゐる 。 晴れはれ ながら 、 とげとげしい 櫨はぜ 《 はじ 》 の 梢こずえ が 、 眼め に 痛くいたく 空そら を 刺しさし て ゐる の さ へ 、 何となくなんとなく 肌寒いはださむい 。
「 では 、 山科やましな 《 やまし な 》 辺あたり で でも ござる か な 。 」
「 山科やましな は 、 これ ぢ や 。 も そつ と 、 さき で ござる よ 。 」
成なる 程ほど 、 さ う 云うん ふ 中なか に 、 山科やましな も 通りとおり すぎ た 。 それ 所しょ で は ない 。 何なに か と する 中なか に 、 関山せきやま も 後ご に し て 、 彼是あれこれ 《 かれこれ 》 、 午うま 《 ひる 》 少しすこし すぎ た 時分じぶん に は 、 とうとう 三井寺みいでら の 前まえ へ 来き た 。 三井寺みいでら に は 、 利り 仁じん の 懇意こんい に し て ゐる 僧そう が ある 。 二に 人にん は その 僧そう を 訪ねたずね て 、 午餐ごさん 《 ひる げ 》 の 馳走ちそう に なつ た 。 それ が すむ と 、 又また 、 馬うま に 乗の つ て 、 途と を 急ぐいそぐ 。 行手ゆくて は 今いま まで 来き た 路みち に 比べるくらべる と 遙 に 人煙じんえん が 少ないすくない 。 殊にことに 当時とうじ は 盗賊とうぞく が 四方しほう に 横行おうこう し た 、 物騒ぶっそう な 時代じだい で ある 。 ―― 五ご 位い は 猫背ねこぜ を 一層いっそう 低くひくく し ながら 、 利り 仁じん の 顔かお を 見上げるみあげる やう に し て 訊ねたずね た 。
「 まだ 、 さき で ござる のう 。 」
利とぎ 仁じん は 微笑びしょう し た 。 悪戯いたずら 《 い た づら 》 を し て 、 それ を 見つけみつけ られ さ うに な つた 子供こども が 、 年長ねんちょう 者しゃ に 向こう つて する やう な 微笑びしょう で ある 。 鼻はな の 先さき へ よせ た 皺しわ 《 しわ 》 と 、 眼め 尻しり に たた へた 筋肉きんにく の たるみ と が 、 笑えみ つ て しまは う か 、 しまふ まい か と ため ら つて ゐる らしい 。 さ うし て 、 とうとう 、 かう 云うん つ た 。
「 実はじつは な 、 敦賀つるが 《 つる が 》 まで 、 お 連れつれ 申さもうさ う と 思うおもう た の ぢ や 。 」 笑えみ ひ ながら 、 利り 仁じん は 鞭むち を 挙げあげ て 遠くとおく の 空そら を 指さしゆびさし た 。 その 鞭むち の 下した に は 、 的てき ※ 《 て きれ き 》 として 、 午後ごご の 日ひ を 受けうけ た 近江おうみ 《 あ ふみ 》 の 湖みずうみ が 光ひかり つて ゐる 。
五ご 位い は 、 狼狽ろうばい 《 ら うばい 》 し た 。
「 敦賀つるが と 申すもうす と 、 あの 越前えちぜん 《 ゑちぜん 》 の 敦賀つるが で ござる か な 。 あの 越前えちぜん の ―― 」
利とぎ 仁じん が 、 敦賀つるが の 人ひと 、 藤原ふじわら | 有ゆう 仁じん 《 あり ひと 》 の 女婿じょせい 《 ぢ よ せい 》 に な つて から 、 多くおおく は 敦賀つるが に 住んすん で ゐる と 云うん ふ 事こと も 、 日頃ひごろ から 聞いきい て ゐ ない 事こと は ない 。 が 、 その 敦賀つるが まで 自分じぶん を つれ て 行くいく 気き だら う と は 、 今いま の 今いま まで 思はおもは なかつ た 。 第だい 一いち 、 幾多いくた の 山河さんが を 隔てへだて て ゐる 越前えちぜん の 国くに へ 、 この 通りとおり 、 僅 二に 人にん の 伴とも 人じん 《 と も びと 》 を つれ た だけ で 、 どうして 無事ぶじ に 行かいか れよ う 。 まして この 頃ころ は 、 往来おうらい 《 ゆき き 》 の 旅人たびびと が 、 盗賊とうぞく の 為ため に 殺さころさ れ た と 云うん ふ 噂うわさ 《 う はさ 》 さ へ 、 諸方しょほう に ある 。 ―― 五ご 位い は 歎願たんがん する やう に 、 利り 仁じん の 顔かお を 見み た 。
「 それ は 又また 、 滅相めっそう な 、 東山ひがしやま ぢ や と 心得れこころえれ ば 、 山科やましな 。 山科やましな ぢ や と 心得れこころえれ ば 、 三井寺みいでら 。 揚句あげく が 越前えちぜん の 敦賀つるが と は 、 一体いったい どう し た と 云うん ふ 事こと で ござる 。 始めはじめ から 、 さ う 仰せおおせ られ う なら 、 下人げにん 共ども なり と 、 召 つれよ う もの を 。 ―― 敦賀つるが と は 、 滅相めっそう な 。 」
五ご 位い は 、 殆どほとんど べそ を 掻かかか ない ばかり に な つて 、 呟 《 つぶ や 》 い た 。 もし 「 芋粥いもがゆ に 飽かあか む 」 事こと が 、 彼かれ の 勇気ゆうき を 鼓舞こぶ し なかつ た と し たら 、 彼かれ は 恐らくおそらく 、 そこ から 別れわかれ て 、 京都きょうと へ 独りひとり 帰き つて 来き た 事こと で あらう 。
「 利とぎ 仁じん が 一いち 人にん 居るいる の は 、 千せん 人にん とも お 思ひおもひ なされ 。 路次ろじ の 心配しんぱい は 、 御ご 無用むよう ぢ や 。 」
五ご 位い の 狼狽ろうばい する の を 見るみる と 、 利り 仁じん は 、 少しすこし 眉まゆ を 顰ひそみ 《 しか 》 め ながら 、 嘲笑ちょうしょう 《 あざ わら 》 つた 。 さ うし て 調度ちょうど 掛かけ を 呼寄せよびよせ て 、 持たもた せ て 来き た 壺つぼ 胡えびす ※ 《 つ ぼや な ぐひ 》 を 背せ に 負まけ ふと 、 やはり 、 その 手て から 、 黒くろ 漆うるし 《 こく し つ 》 の 真弓まゆみ 《 まゆみ 》 を うけ 取と つ て 、 それ を 鞍くら 上じょう に 横よこ へ ながら 、 先さき に 立つたつ て 、 馬うま を 進めすすめ た 。 かう なる 以上いじょう 、 意気地いくじ の ない 五ご 位い は 、 利り 仁じん の 意志いし に 盲従もうじゅう する より 外そと に 仕方しかた が ない 。 それで 、 彼かれ は 心細こころぼそ さ うに 、 荒涼こうりょう と し た 周囲しゅうい の 原野げんや を 眺めながめ ながら 、 うろ覚えうろおぼえ の 観音かんのん 経けい 《 くわ ん おん ぎやう 》 を 口くち の 中なか に 念じねんじ 念じねんじ 、 例れい の 赤鼻あかばな を 鞍くら の 前輪ぜんりん に すりつける やう に し て 、 覚さとし 束たば ない 馬うま の 歩みあゆみ を 、 不ふ 相あい 変へん 《 あ ひか はら ず 》 と ぼとぼと 進めすすめ て 行くだり つ た 。
馬蹄ばてい の 反響はんきょう する 野の は 、 茫々ぼうぼう たる 黄き 茅かや 《 くわ うばう 》 に 蔽 《 お ほ 》 はれ て 、 その 所々ところどころ に ある 行くだり 潦にわたずみ 《 み づたまり 》 も 、 つめたく 、 青空あおぞら を 映しうつし た まま 、 この 冬ふゆ の 午後ごご を 、 何時いつ か それなり 凍こお つ て しまふ か と 疑うたぐ はれる 。 その 涯 《 はて 》 に は 、 一帯いったい の 山脈さんみゃく が 、 日ひ に 背いそむい て ゐる せ ゐ か 、 かがやく 可か き 残雪ざんせつ の 光ひかり も なく 、 紫むらさき が かつ た 暗いくらい 色いろ を 、 長々ながなが と なす つて ゐる が 、 それ さ へ 蕭条しょうじょう 《 せ う で う 》 たる 幾いく 叢くさむら 《 いく むら 》 の 枯 薄うす 《 かれ すすき 》 に 遮さえぎ 《 さ へぎ 》 られ て 、 二に 人にん の 従者じゅうしゃ の 眼め に は 、 はいら ない 事こと が 多いおおい 。 ―― する と 、 利り 仁じん が 、 突然とつぜん 、 五ご 位い の 方ほう を ふりむい て 、 声こえ を かけ た 。
「 あれ に 、 よい 使者ししゃ が 参さん つ た 。 敦賀つるが へ の 言げん づけ を 申さもうさ う 。 」
五ご 位い は 利り 仁じん の 云うん ふ 意味いみ が 、 よく わから ない ので 、 怖こわ 々 《 こ は ご は 》 ながら 、 その 弓ゆみ で 指さすゆびさす 方ほう を 、 眺めながめ て 見み た 。 元もと より 人ひと の 姿すがた が 見えるみえる やう な 所ところ で は ない 。 唯ただ 、 野の 葡萄ぶどう 《 のぶ だ う 》 か 何なに か の 蔓つる 《 つる 》 が 、 灌 木き の 一いち むら に からみつい て ゐる 中なか を 、 一疋いっぴき の 狐きつね が 、 暖かあたたか な 毛け の 色いろ を 、 傾きかたむき かけ た 日ひ に 曝 《 さら 》 し ながら 、 の そり の そり 歩いあるい て 行くいく 。 ―― と 思ふおもふ 中なか に 、 狐きつね は 、 慌 《 あわ 》 ただしく 身み を 跳 ら せ て 、 一散いっさん に 、 どこ と も なく 走り出しはしりだし た 。 利り 仁じん が 急きゅう に 、 鞭むち を 鳴らせならせ て 、 その 方ほう へ 馬うま を 飛ばしとばし 始めはじめ た から で ある 。 五ご 位い も 、 われ を 忘れわすれ て 、 利り 仁じん の 後のち を 、 逐 《 お 》 つた 。 従者じゅうしゃ も 勿論もちろん 、 遅れおくれ て は ゐ られ ない 。 しばらく は 、 石いし を 蹴るける 馬蹄ばてい の 音おと が 、 戞 々 《 かつかつ 》 として 、 曠野あらの の 静けさしずけさ を 破やぶ つて ゐ た が 、 やがて 利り 仁じん が 、 馬うま を 止めとめ た の を 見るみる と 、 何なん 時じ 、 捕と へ た の か 、 もう 狐きつね の 後足あとあし を 掴 《 つか 》 んで 、 倒 《 さ か さま 》 に 、 鞍くら の 側がわ へ 、 ぶら下げぶらさげ て ゐる 。 狐きつね が 、 走れはしれ なく なる まで 、 追つい ひ つめ た 所ところ で 、 それ を 馬うま の 下した に 敷いしい て 、 手取りてどり に し た もの で あらう 。 五ご 位い は 、 うすい 髭ひげ に たまる 汗あせ を 、 慌しくあわただしく 拭きふき ながら 、 漸うたて 《 やう やく 》 、 その 傍はた へ 馬うま を 乗りつけのりつけ た 。
「 これ 、 狐きつね 、 よう 聞けきけ よ 。 」 利り 仁じん は 、 狐きつね を 高くたかく 眼め の 前まえ へ つるし上げつるしあげ ながら 、 わざと 物々しいものものしい 声こえ を 出しだし て かう 云うん つ た 。 「 其 方かた 、 今夜こんや の 中なか に 、 敦賀つるが の 利り 仁じん が 館たて 《 やかた 》 へ 参さん つて 、 かう 申せもうせ 。 『 利とぎ 仁じん は 、 唯今ただいま | 俄にわか 《 に はか 》 に 客人きゃくじん を 具ぐ し て 下らくだら う と する 所ところ ぢ や 。 明日あした 、 巳み 時じ 《 み の とき 》 頃ごろ 、 高島たかしま の 辺あたり まで 、 男おとこ たち を 迎むかい ひ に 遣や 《 つか 》 は し 、 それに 、 鞍くら 置 馬ば 二に 疋 、 牽かひか せ て 参れまいれ 。 』 よい か 忘れるわすれる な よ 。 」
云うん ひ 畢 《 を は 》 る と共にとともに 、 利り 仁じん は 、 一いち ふり 振ふ つて 狐きつね を 、 遠くとおく の 叢くさむら 《 くさ むら 》 の 中なか へ 、 抛ほう 《 は ふ 》 り 出しだし た 。
「 いや 、 走るはしる わ 。 走るはしる わ 。 」
やつ と 、 追つい ひつ い た 二に 人にん の 従者じゅうしゃ は 、 逃げにげ て ゆく 狐きつね の 行方ゆくえ を 眺めながめ ながら 、 手て を 拍はく 《 う 》 つて 囃 《 はや 》 し 立てたて た 。 落葉らくよう の やう な 色いろ を し た その 獣しし の 背せ は 、 夕日ゆうひ の 中なか を 、 まつ し ぐらに 、 木の根きのね 石いし くれ の 嫌いや ひ なく 、 何処どこ まで も 、 走はし つ て 行くいく 。 それ が 一行いっこう の 立つたつ て ゐる 所ところ から 、 手て に とる やう に よく 見えみえ た 。 狐きつね を 追つい つて ゐる 中なか に 、 何時いつ か 彼等かれら は 、 曠野あらの が 緩ゆる 《 ゆる 》 い 斜面しゃめん を 作さく つて 、 水みず の 涸れかれ た 川床かわどこ と 一つひとつ に なる 、 その 丁度ちょうど 上じょう の 所ところ へ 、 出で て ゐ た から で ある 。
「 広量こうりょう 《 くわ う り やう 》 の 御ご 使し で ござる のう 。 」
五ご 位い は 、 ナイイヴ な 尊敬そんけい と 讃さん 嘆 と を 洩らしもらし ながら 、 この 狐きつね さ へ 頤使いし 《 いし 》 する 野育ちのそだち の 武人ぶじん の 顔かお を 、 今更いまさら の やう に 、 仰いあおい で 見み た 。 自分じぶん と 利とぎ 仁じん と の 間ま に 、 どれ 程ほど の 懸隔けんかく が ある か 、 そんな 事こと は 、 考へるかんがへる 暇ひま が ない 。 唯ただ 、 利り 仁じん の 意志いし に 、 支配しはい さ れる 範囲はんい が 広いひろい だけ に 、 その 意志いし の 中なか に 包容ほうよう さ れる 自分じぶん の 意志いし も 、 それだけ 自由じゆう が 利くきく やう に なつ た 事こと を 、 心強くこころづよく 感じるかんじる だけ で ある 。 ―― 阿諛あゆ 《 あゆ 》 は 、 恐らくおそらく 、 かう 云うん ふ 時とき に 、 最さい 《 もつとも 》 自然しぜん に 生れうまれ て 来るくる もの で あらう 。 読者どくしゃ は 、 今後こんご 、 赤鼻あかばな の 五ご 位い の 態度たいど に 、 幇間ほうかん 《 ほう かん 》 の やう な 何なに 物もの か を 見出しみいだし て も 、 それ だけ で 妄 《 み だり 》 に この 男おとこ の 人格じんかく を 、 疑うたぐ ふ 可か き で は ない 。
抛り出さほうりださ れ た 狐きつね は 、 なぞ へ の 斜面しゃめん を 、 転げるころげる やう に し て 、 駈けかけ 下りるおりる と 、 水みず の 無いない 河床かしょう の 石いし の 間ま を 、 器用きよう に 、 ぴよいぴよい 、 飛び越えとびこえ て 、 今度こんど は 、 向うむこう の 斜面しゃめん へ 、 勢ぜい よく 、 す ぢ か ひ に 駈けかけ 上じょう つ た 。 駈けかけ 上りのぼり ながら 、 ふり か へ つて 見るみる と 、 自分じぶん を 手て 捕りとり に し た 侍さむらい の 一行いっこう は 、 まだ 遠いとおい 傾斜けいしゃ の 上うえ に 馬うま を 並べならべ て 立つたつ て ゐる 。 それ が 皆みな 、 指ゆび を 揃そろい へ た 程ほど に 、 小さくちいさく 見えみえ た 。 殊にことに 入日いりひ を 浴びあび た 、 月毛つきげ と 蘆あし 毛け と が 、 霜しも を 含んふくん だ 空気くうき の 中なか に 、 描いえがい た より も くつ きり と 、 浮きうき 上じょう つて ゐる 。
狐きつね は 、 頭あたま を めぐらす と 、 又また 枯 薄うす の 中なか を 、 風かぜ の やう に 走り出しはしりだし た 。
✦ Peek一行いっこう は 、 予定よてい 通りどおり 翌日よくじつ の 巳み 時じ 《 み の とき 》 ばかり に 、 高島たかしま の 辺あたり へ 来き た 。 此処ここ は 琵琶湖びわこ に 臨んのぞん だ 、 ささやか な 部落ぶらく で 、 昨日きのう に 似に ず 、 どんより と 曇くもり つた 空そら の 下した に 、 幾いく 戸こ の 藁屋わらや 《 わら や 》 が 、 疎うと 《 まばら 》 に ちら ばつ て ゐる ばかり 、 岸きし に 生えはえ た 松まつ の 樹き の 間ま に は 、 灰色はいいろ の 漣さざなみ ※ 《 さ ざなみ 》 を よせる 湖みずうみ の 水面すいめん が 、 磨くみがく の を 忘れわすれ た 鏡かがみ の やう に 、 さむざむ と 開けあけ て ゐる 。 ―― 此処ここ まで 来るくる と 利とぎ 仁じん が 、 五ご 位い を 顧みかえりみ て 云うん つ た 。
「 あれ を 御覧ごらん 《 ご ら う 》 じ ろ 。 男おとこ ども が 、 迎むかい ひ に 参さん つた げ で ござる 。 」
見るみる と 、 成なる 程ほど 、 二に 疋 の 鞍くら 置 馬ば を 牽いひい た 、 二に 三さん 十じゅう 人にん の 男おとこ たち が 、 馬うま に 跨がまたが つたの も あり 徒歩とほ 《 かち 》 の も あり 、 皆みな 水干すいかん の 袖そで を 寒風かんぷう に 翻こぼし へ し て 、 湖みずうみ の 岸きし 、 松まつ の 間ま を 、 一行いっこう の 方ほう へ 急いいそい で 来るくる 。 やがて これ が 、 間近くまぢかく な つた と 思ふおもふ と 、 馬うま に 乗の つて ゐ た 連中れんちゅう は 、 慌ただしくあわただしく 鞍くら を 下りくだり 、 徒歩とほ の 連中れんちゅう は 、 路傍ろぼう に 蹲踞そんきょ 《 そん き よ 》 し て 、 いづれ も 恭きょう 々 しく 、 利り 仁じん の 来るくる の を 、 待ちまち うけ た 。
「 やはり 、 あの 狐きつね が 、 使者ししゃ を 勤めつとめ た と 見えみえ ます のう 。 」
「 生得しょうとく 《 し や うとく 》 、 変化へんか 《 へん げ 》 ある 獣しし ぢ や て 、 あの 位くらい の 用よう を 勤めるつとめる の は 、 何なに でも ござら ぬ 。 」
五ご 位い と 利とぎ 仁じん と が 、 こんな 話はなし を し て ゐる 中なか に 、 一行いっこう は 、 郎等ろうどう 《 ら うど う 》 たち の 待つまつ て ゐる 所ところ へ 来き た 。 「 大儀たいぎ ぢ や 。 」 と 、 利り 仁じん が 声こえ を かける 。 蹲踞そんきょ し て ゐ た 連中れんちゅう が 、 忙しくいそがしく 立つたつ て 、 二に 人にん の 馬うま の 口くち を 取るとる 。 急きゅう に 、 すべて が 陽気ようき に なつ た 。
「 夜前やぜん 、 稀有けう 《 けう 》 な 事こと が 、 ござい まし て な 。 」
二に 人にん が 、 馬うま から 下りおり て 、 敷皮しきがわ の 上うえ へ 、 腰こし を 下すくだす か 下さくださ ない 中なか に 、 檜ひのき 皮がわ 色しょく 《 ひ は だい ろ 》 の 水干すいかん を 着き た 、 白髪はくはつ の 郎等ろうどう が 、 利り 仁じん の 前まえ へ 来き て 、 かう 云うん つ た 。 「 何なに ぢ や 。 」 利り 仁じん は 、 郎等ろうどう たち の 持つもつ て 来き た 篠しの 枝えだ 《 ささえ 》 や 破やぶ 籠かご 《 わり ご 》 を 、 五ご 位い に も 勧めすすめ ながら 、 鷹揚おうよう 《 おう やう 》 に 問とい ひ かけ た 。
「 され ば で ござい ます る 。 夜前やぜん 、 戌いぬ 時じ 《 いぬ の とき 》 ばかり に 、 奥方おくがた が 俄にわか 《 に はか 》 に 、 人心地ひとごこち 《 ひと ごこち 》 を お 失ひうしなひ なさ れ まし て な 。 『 おのれ は 、 阪本さかもと の 狐きつね ぢ や 。 今日きょう 、 殿しんがり の 仰せおおせ られ た 事こと を 、 言伝ことづて 《 こと づ 》 て せ う ほど に 、 近うちかう 寄やどりき つて 、 よう 聞ききき やれ 。 』 と 、 かう 仰おっしゃ 有ゆう 《 お つ し や 》 る の で ござい ます る 。 さて 、 一同いちどう が お前おまえ に 参りまいり まする と 、 奥方おくがた の 仰せおおせ られ まする に は 、 『 殿しんがり は 唯今ただいま 俄にわか に 客人きゃくじん を 具ぐ し て 、 下らくだら れよ う と する 所ところ ぢ や 。 明日あした 巳み 時じ 頃ごろ 、 高島たかしま の 辺あたり まで 、 男おとこ ども を 迎むかい ひ に 遺のこ は し 、 それに 鞍くら 置 馬ば 二に 疋 牽かひか せ て 参れまいれ 。 』 と 、 かう 御意ぎょい 《 ぎよい 》 遊ばすあそばす の で ござい ます る 。 」
「 それ は 、 又また 、 稀有けう 《 けう 》 な 事こと で ござる のう 。 」 五ご 位い は 利り 仁じん の 顔かお と 、 郎等ろうどう の 顔かお と を 、 仔細しさい らしく 見比べみくらべ ながら 、 両方りょうほう に 満足まんぞく を 与あずか へる やう な 、 相槌あいづち 《 あ ひ づち 》 を 打つうつ た 。
「 それ も 唯ただ 、 仰せおおせ られる の で は ござい ませ ぬ 。 さも 、 恐ろしおそろし さ うに 、 わなわな と お 震しん へ に なり まし て な 、 『 遅れおくれ まい ぞ 。 遅れれおくれれ ば 、 おのれ が 、 殿しんがり の 御ご 勘当かんどう を うけ ね ば なら ぬ 。 』 と 、 し つ きりなし に 、 お 泣きなき に なる の で ござい ます る 。 」
「 し て 、 それから 、 如何いか 《 いかが 》 し た 。 」
「 それから 、 多た 愛あい なく 、 お 休みやすみ に なり まし て な 。 手前てまえ 共ども の 出で て 参りまいり まする 時とき に も 、 まだ 、 お 眼め 覚さとし に は なら ぬ やう で 、 ござい まし た 。 」
「 如何いかが で ござる な 。 」 郎等ろうどう の 話はなし を 聞ききき 完かん 《 を は 》 る と 、 利り 仁じん は 五ご 位い を 見み て 、 得意とくい らしく 云うん つ た 。 「 利とぎ 仁じん に は 、 獣しし 《 け もの 》 も 使し はれ 申すもうす わ 。 」
「 何ともなんとも 驚き入るおどろきいる 外そと は 、 ござら ぬ のう 。 」 五ご 位い は 、 赤鼻あかばな を 掻きかき ながら 、 ちよい と 、 頭あたま を 下げさげ て 、 それから 、 わざとらしく 、 呆れあきれ た やう に 、 口くち を 開いひらい て 見せみせ た 。 口髭くちひげ に は 、 今いま 飲んのん だ 酒さけ が 、 滴しずく 《 し づく 》 に な つて 、 くつ つい て ゐる 。
✦ Peekその 日ひ の 夜よる の 事こと で ある 。 五ご 位い は 、 利り 仁じん の 館かん 《 やかた 》 の 一間いっけん 《 ひと ま 》 に 、 切せつ 燈台とうだい の 灯あかり を 眺めるながめる とも なく 、 眺めながめ ながら 、 寝つかねつか れ ない 長ちょう の 夜よる を ま ぢ ま ぢ し て 、 明あきら 《 あか 》 し て ゐ た 。 すると 、 夕方ゆうがた 、 此処ここ へ 着くつく まで に 、 利り 仁じん や 利り 仁じん の 従者じゅうしゃ と 、 談笑だんしょう し ながら 、 越えこえ て 来き た 松山まつやま 、 小川おがわ 、 枯 野の 、 或はあるいは 、 草くさ 、 木の葉このは 、 石いし 、 野火のび の 煙けむ の に ほ ひ 、 ―― さ う 云うん ふも の が 、 一つひとつ づつ 、 五ご 位い の 心こころ に 、 浮んうかん で 来き た 。 殊にことに 、 雀色すずめいろ 時じ 《 すずめ いろ どき 》 の 靄 《 も や 》 の 中なか を 、 やつ と 、 この 館かん へ 辿たど 《 た ど 》 りつ い て 、 長櫃ながびつ 《 な が びつ 》 に 起しおこし て ある 、 炭火すみび の 赤いあかい 焔ほのお を 見み た 時とき の 、 ほ つ と し た 心もちこころもち 、 ―― それ も 、 今いま かう し て 、 寝ね て ゐる と 、 遠いとおい 昔むかし に あつ た 事こと と しか 、 思はおもは れ ない 。 五ご 位い は 綿めん の 四よん 五ご 寸すん も はい つた 、 黄いろいきいろい 直垂ひたたれ 《 ひ た たれ 》 の 下した に 、 楽々らくらく と 、 足あし を のばし ながら 、 ぼんやり 、 われ と わが 寝ね 姿すがた を 見廻しみまわし た 。
直垂ひたたれ の 下した に 利り 仁じん が 貸しかし て くれ た 、 練ねり 色しょく 《 ねり いろ 》 の 衣ころも 《 きぬ 》 の 綿めん 厚あつし 《 わた あつ 》 な の を 、 二に 枚まい まで 重ねかさね て 、 着こつこ ん で ゐる 。 それ だけ でも 、 どうか する と 、 汗あせ が 出で かね ない 程ほど 、 暖かいあたたかい 。 そこ へ 、 夕飯ゆうはん の 時とき に 一いち 杯はい や つた 、 酒さけ の 酔よい が 手て 伝でん つて ゐる 。 枕元まくらもと の 蔀しとみ 《 し とみ 》 一つひとつ 隔てへだて た 向うむこう は 、 霜しも の 冴えさえ た 広ひろ 庭にわ だ が 、 それ も 、 かう 陶然とうぜん として ゐれ ば 、 少しすこし も 苦く に なら ない 。 万事ばんじ が 、 京都きょうと の 自分じぶん の 曹司ぞうし 《 ざうし 》 に ゐ た 時とき と 比べれくらべれ ば 、 雲泥うんでい の 相違そうい で ある 。 が 、 それ に も 係かかり はら ず 、 我わが 五ご 位い の 心こころ に は 、 何となくなんとなく 釣合つりあい の とれ ない 不安ふあん が あつ た 。 第だい 一いち 、 時間じかん の たつ て 行くいく の が 、 待まち 遠いとおい 。 しかも それ と 同時にどうじに 、 夜よる の 明けるあける と 云うん ふ 事こと が 、 ―― 芋粥いもがゆ を 食しょく ふ 時とき に なる と 云うん ふ 事こと が 、 さ う 早くはやく 、 来き て は なら ない やう な 心もちこころもち が する 。 さ うし て 又また 、 この 矛盾むじゅん し た 二つふたつ の 感情かんじょう が 、 互にかたみに 剋 し 合ごう ふ 後のち に は 、 境遇きょうぐう の 急激きゅうげき な 変化へんか から 来るくる 、 落着らくちゃく か ない 気分きぶん が 、 今日きょう の 天気てんき の やう に 、 うすら寒くうすらさむく 控ひかえ へ て ゐる 。 それ が 、 皆みな 、 邪魔じゃま に なつ て 、 折角せっかく の 暖かあたたか さ も 、 容易ようい に 、 眠りねむり を 誘ひさそひ さ うも ない 。
すると 、 外そと の 広ひろ 庭にわ で 、 誰だれ か 大きなおおきな 声こえ を 出しだし て ゐる の が 、 耳みみ に は い つ た 。 声こえ がら で は 、 どうも 、 今日きょう 、 途中とちゅう まで 迎むかえ へ に 出で た 、 白髪はくはつ の 郎等ろうどう が 何なに か 告つげ 《 ふ 》 れ て ゐる らしい 。 その 乾いぬい 《 ひ 》 からび た 声こえ が 、 霜しも に 響くひびく せ ゐ か 、 凛々りんりん 《 りん りん 》 として 凩こがらし 《 こが らし 》 の やう に 、 一語いちご づつ 五ご 位い の 骨ほね に 、 応 へる やう な 気き さ へ する 。
「 この 辺あたり の 下人げにん 、 承うけたまわ はれ 。 殿しんがり の 御意ぎょい 遊ばさあそばさ るる に は 、 明朝みょうちょう 、 卯う 時じ 《 う の とき 》 まで に 、 切口きりくち 三さん 寸すん 、 長なが さ 五ご 尺しゃく の 山の芋やまのいも を 、 老若ろうにゃく 各かく 《 おのおの 》 、 一筋ひとすじ づつ 、 持つもつ て 参るまいる 様よう に と ある 。 忘れわすれ まい ぞ 、 卯う 時じ まで に ぢ や 。 」
それ が 、 二に 三さん 度ど 、 繰返さくりかえさ れ た か と 思ふおもふ と 、 やがて 、 人ひと のけ は ひ が 止んやん で 、 あたり は 忽 《 たち ま 》 ち 元もと の やう に 、 静せい な 冬ふゆ の 夜よる に なつ た 。 その 静せい な 中なか に 、 切せつ 燈台とうだい の 油あぶら が 鳴るなる 。 赤いあかい 真綿まわた の やう な 火ひ が 、 ゆらゆら する 。 五ご 位い は 欠伸あくび 《 あくび 》 を 一つひとつ 、 噛みかみ つぶし て 、 又また 、 とりとめ の ない 、 思量しりょう に 耽ふけ 《 ふけ 》 り 出しだし た 。 ―― 山の芋やまのいも と 云うん ふか ら に は 、 勿論もちろん 芋粥いもがゆ に する 気き で 、 持つもつ て 来さきたさ せる の に 相違そうい ない 。 さ う 思ふおもふ と 、 一時いちじ 、 外そと に 注意ちゅうい を 集中しゅうちゅう し た おかげ で 忘れわすれ て ゐ た 、 さつき の 不安ふあん が 、 何時の間にかいつのまにか 、 心こころ に 帰き つて 来るくる 。 殊にことに 、 前まえ より も 、 一層いっそう 強くつよく な つたの は 、 あまり 早くはやく 芋粥いもがゆ に ありつき たく ない と 云うん ふ 心もちこころもち で 、 それ が 意地いじ 悪くわるく 、 思量しりょう の 中心ちゅうしん を 離れはなれ ない 。 どうも かう 容易ようい に 「 芋粥いもがゆ に 飽かあか む 」 事こと が 、 事実じじつ と な つて 現れあらわれ て は 、 折角せっかく 今いま まで 、 何なん 年ねん と なく 、 辛抱しんぼう し て 待つまつ て ゐ た の が 、 如何にもいかにも 、 無駄むだ な 骨折こっせつ の やう に 、 見えみえ て しまふ 。 出来るできる 事こと なら 、 突然とつぜん 何なに か 故障こしょう が 起つたつ て 一旦いったん 、 芋粥いもがゆ が 飲めのめ なく な つて から 、 又また 、 その 故障こしょう が なく な つて 、 今度こんど は 、 やつ と これ に あり つける と 云うん ふ やう な 、 そんな 手続きてつづき に 、 万事ばんじ を 運ばはこば せ たい 。 ―― こんな 考こう へ が 、 「 こま つぶり 」 の やう に 、 ぐるぐる 一つひとつ 所しょ を 廻まわり つて ゐる 中なか に 、 何時いつ か 、 五ご 位い は 、 旅たび の 疲れつかれ で 、 ぐつすり 、 熟睡じゅくすい し て し まつ た 。
翌朝よくあさ 、 眼め が さめる と 、 直ただし 《 すぐ 》 に 、 昨夜さくや の 山の芋やまのいも の 一いち 件けん が 、 気き に なる ので 、 五ご 位い は 、 何なに より も 先さき に 部屋へや の 蔀しとみ 《 し とみ 》 を あげ て 見み た 。 すると 、 知らしら ない 中なか に 、 寝ね すごし て 、 もう 卯う 時じ 《 う の とき 》 を すぎ て ゐ た ので あらう 。 広ひろ 庭にわ へ 敷いしい た 、 四よん 五ご 枚まい の 長ちょう 筵むしろ 《 な が むしろ 》 の 上うえ に は 、 丸太まるた の やう な 物もの が 、 凡 《 お よ 》 そ 、 二に 三さん 千せん 本ほん 、 斜はす に つき 出しだし た 、 檜ひのき 皮がわ 葺 《 ひ は だぶ き 》 の 軒先のきさき へ つか へる 程ほど 、 山やま の やう に 、 積んつん で ある 。 見るみる と それ が 、 悉くことごとく 、 切口きりくち 三さん 寸すん 、 長なが さ 五ご 尺しゃく の 途方とほう も なく 大きいおおきい 、 山の芋やまのいも で あつ た 。
五ご 位い は 、 寝起きねおき の 眼め を こすり ながら 、 殆どほとんど 周章しゅうしょう に 近いちかい 驚愕きょうがく 《 き やう がく 》 に 襲かさね はれ て 、 呆然ぼうぜん 《 ば う ぜん 》 と 、 周囲しゅうい を 見廻しみまわし た 。 広ひろ 庭にわ の 所々ところどころ に は 、 新しくあたらしく 打つうつ たらしい 杭くい の 上うえ に 五ご 斛 納おさめ 釜かま 《 ごく な ふ がま 》 を 五ついつつ 六つむっつ 、 かけ 連ねつらね て 、 白いしろい 布ぬの の 襖ふすま 《 あ を 》 を 着き た 若いわかい 下司げす 女おんな 《 げす を ん な 》 が 、 何なん 十じゅう 人にん と なく 、 その ま はり に 動いうごい て ゐる 。 火ひ を 焚きつけるたきつける もの 、 灰はい を 掻くかく もの 、 或はあるいは 、 新しいあたらしい 白木しらき の 桶おけ 《 を け 》 に 、 「 あま づら みせ ん 」 を 汲んくん で 釜かま の 中なか へ 入れるいれる もの 、 皆みな 芋粥いもがゆ を つくる 準備じゅんび で 、 眼め の ま はる 程ほど 忙しいいそがしい 。 釜かま の 下した から 上るのぼる 煙けむり と 、 釜かま の 中なか から 湧くわく 湯気ゆげ と が 、 まだ 消え残きえのこ つ て ゐる 明方あけがた の 靄 と 一つひとつ に な つて 、 広ひろ 庭にわ 一いち 面めん 、 はつ きり 物ぶつ も 見定めみさだめ られ ない 程ほど 、 灰色はいいろ の もの が 罩 《 こ 》 め た 中なか で 、 赤いあかい の は 、 烈々れつれつ と 燃えもえ 上るのぼる 釜かま の 下した の 焔ほのお ばかり 、 眼め に 見るみる もの 、 耳みみ に 聞くきく もの 悉くことごとく 、 戦場せんじょう か 火事場かじば へ で も 行くだり つ た やう な 騒ぎさわぎ で ある 。 五ご 位い は 、 今更いまさら の やう に 、 この 巨大きょだい な 山の芋やまのいも が 、 この 巨大きょだい な 五ご 斛 納おさめ 釜かま の 中なか で 、 芋粥いもがゆ に なる 事こと を 考へかんがへ た 。 さ うし て 、 自分じぶん が 、 その 芋粥いもがゆ を 食しょく ふ 為ため に 京都きょうと から 、 わざわざ 、 越前えちぜん の 敦賀つるが まで 旅たび を し て 来き た 事こと を 考へかんがへ た 。 考へれかんがへれ ば 考へるかんがへる 程ほど 、 何一つなにひとつ 、 情じょう 無くならなくなら ない もの は ない 。 我わが 五ご 位い の 同情どうじょう す べき 食慾しょくよく は 、 実にじつに 、 此 時じ もう 、 一半いっぱん を 減却げんきゃく 《 げんき やく 》 し て しま つたの で ある 。
それから 、 一いち 時間じかん の 後のち 、 五ご 位い は 利り 仁じん や 舅しゅうと 《 し う と 》 の 有ゆう 仁じん 《 あり ひと 》 と共にとともに 、 朝飯あさめし の 膳ぜん に 向むかい つた 。 前まえ に ある の は 、 銀ぎん 《 しろ が ね 》 の 提ひさげ 《 ひさげ 》 の 一いち 斗と ばかり は いる のに 、 なみなみと 海うみ の 如くごとく た た へた 、 恐るべきおそるべき 芋粥いもがゆ で ある 。 五ご 位い は さ つき 、 あの 軒のき まで 積上げつみあげ た 山の芋やまのいも を 、 何なん 十じゅう 人にん か の 若いわかい 男おとこ が 、 薄刃うすば を 器用きよう に 動かしうごかし ながら 、 片端かたわ から 削るけずる やう に 、 勢ぜい よく 切るきる の を 見み た 。 それから それ を 、 あの 下司げす 女おんな たち が 、 右往左往うおうさおう に 馳せはせ ち が つて 、 一つひとつ のこら ず 、 五ご 斛 納おさめ 釜かま へ すく つて は 入れいれ 、 すく つて は 入れいれ する の を 見み た 。 最後さいご に 、 その 山の芋やまのいも が 、 一つひとつ も 長ちょう 筵むしろ の 上うえ に 見えみえ なく なつ た 時とき に 、 芋いも の に ほ ひと 、 甘あま 葛くず 《 あま づら 》 の に ほ ひと を 含んふくん だ 、 幾いく 道どう 《 いく だ う 》 か の 湯気ゆげ の 柱はしら が 、 蓬よもぎ 々 然しか 《 ほう ほうぜ ん 》 として 、 釜かま の 中なか から 、 晴れはれ た 朝あさ の 空そら へ 、 舞まい 上じょう つて 行くいく の を 見み た 。 これ を 、 目め 《 ま 》 の あたり に 見み た 彼かれ が 、 今いま 、 提ひさげ に 入れいれ た 芋粥いもがゆ に 対したいし た 時とき 、 まだ 、 口くち を つけ ない 中なか から 、 既にすでに 、 満腹まんぷく を 感じかんじ た の は 、 恐らくおそらく 、 無理むり も ない 次第しだい で あらう 。 ―― 五ご 位い は 、 提ひさげ を 前まえ に し て 、 間ま の 悪わる さ うに 、 額がく の 汗あせ を 拭いふい た 。
「 芋粥いもがゆ に 飽かあか れ た 事こと が 、 ござら ぬげ な 。 どうぞ 、 遠慮なくえんりょなく 召 上じょう つ て 下されくだされ 。 」
舅しゅうと の 有ゆう 仁じん は 、 童わらべ 児じ たち に 云うん ひ つけ て 、 更にさらに 幾ついくつ か の 銀ぎん の 提ひさげ を 膳ぜん の 上うえ に 並べならべ させ た 。 中なか に は どれ も 芋粥いもがゆ が 、 溢 《 あふ 》 れん ばかり に は い つ て ゐる 。 五ご 位い は 眼め を つぶ つて 、 唯ただ で さ へ 赤いあかい 鼻はな を 、 一層いっそう 赤くあかく し ながら 、 提ひさげ に 半分はんぶん ばかり の 芋粥いもがゆ を 大きなおおきな 土器どき 《 か はら け 》 に すく つて 、 いやいやながら 飲み干しのみほし た 。
「 父ちち も 、 さ う 申すもうす ぢ や て 。 平たいら 《 ひ ら 》 に 、 遠慮えんりょ は 御ご 無用むよう ぢ や 。 」
利とぎ 仁じん も 側がわ から 、 新しん な 提ひさげ を すすめ て 、 意地いじ 悪くわるく 笑えみ ひ ながら こんな 事こと を 云うん ふ 。 弱じゃく つたの は 五ご 位い で ある 。 遠慮えんりょ の ない 所ところ を 云うん へ ば 、 始めはじめ から 芋粥いもがゆ は 、 一いち 椀わん も 吸 ひ たく ない 。 それ を 今いま 、 我慢がまん し て 、 やつ と 、 提ひさげ に 半分はんぶん だけ 平ひら げた 。 これ 以上いじょう 、 飲めのめ ば 、 喉のど を 越さこさ ない 中なか に もどし て しまふ 、 さ うかと 云うん つて 、 飲まのま なけれ ば 、 利り 仁じん や 有ゆう 仁じん の 厚意こうい を 無む に する の も 、 同じおなじ で ある 。 そこで 、 彼かれ は 又また 眼め を つぶ つて 、 残りのこり の 半分はんぶん を 三さん 分のぶんの 一いち 程ほど 飲み干しのみほし た 。 もう 後ご は 一口ひとくち も 吸 ひ やう が ない 。
「 何ともなんとも 、 忝 う ご ざつた 。 もう 十分じゅうぶん 頂戴ちょうだい 致しいたし た て 。 ―― いや はや 、 何ともなんとも 忝 う ご ざつた 。 」
五ご 位い は 、 しどろもどろ に なつ て 、 かう 云うん つ た 。 余程よほど 弱じゃく つた と 見えみえ て 、 口髭くちひげ に も 、 鼻はな の 先さき に も 、 冬ふゆ と は 思はおもは れ ない 程ほど 、 汗あせ が 玉たま に な つて 、 垂れたれ て ゐる 。
「 これ は 又また 、 御ご 少食しょうしょく ぢ や 。 客人きゃくじん は 、 遠慮えんりょ を さ れる と 見えみえ た ぞ 。 それ それ その 方ほう ども 、 何なに を 致しいたし て 居るいる 。 」
童わらべ 児じ たち は 、 有ゆう 仁じん の 語かたり に つれ て 、 新しん な 提ひさげ の 中なか から 、 芋粥いもがゆ を 、 土器どき 《 か はら け 》 に 汲まくま う と する 。 五ご 位い は 、 両手りょうて を 蠅はえ で も 逐 ふ やう に 動かしうごかし て 、 平にひらに 、 辞退じたい の 意い を 示ししめし た 。
「 いや 、 もう 、 十分じゅうぶん で ござる 。 … … 失礼しつれい ながら 、 十分じゅうぶん で ござる 。 」
もし 、 此 時じ 、 利り 仁じん が 、 突然とつぜん 、 向うむこう の 家いえ の 軒のき を 指しさし て 、 「 あれ を 御覧ごらん 《 ご ら う 》 じ ろ 」 と 云うん は なかつ た なら 、 有ゆう 仁じん は 猶なお 《 なほ 》 、 五ご 位い に 、 芋粥いもがゆ を すすめ て 、 止まやま なかつ た かも 知れしれ ない 。 が 、 幸こう ひ に し て 、 利り 仁じん の 声こえ は 、 一同いちどう の 注意ちゅうい を 、 その 軒のき の 方ほう へ 持つもつ て 行くだり つ た 。 檜ひのき 皮がわ 葺 《 ひ は だぶ き 》 の 軒のき に は 、 丁度ちょうど 、 朝日あさひ が さして ゐる 。 さ うし て 、 その まばゆい 光ひかり に 、 光沢こうたく 《 つや 》 の いい 毛皮けがわ を 洗あらい は せ ながら 、 一疋いっぴき の 獣しし が 、 おとなしく 、 坐すわ つ て ゐる 。 見るみる と それ は 一昨日おととい 《 を と と ひ 》 、 利り 仁じん が 枯 野の の 路みち で 手て 捕りとり に し た 、 あの 阪本さかもと の 野の 狐きつね で あつ た 。
「 狐きつね も 、 芋粥いもがゆ が 欲しほし さ に 、 見参けんざん し た さうな 。 男おとこ ども 、 し やつ に も 、 物もの を 食しょく は せ てつ か は せ 。 」
利とぎ 仁じん の 命令めいれい は 、 言下げんか 《 ご ん か 》 に 行くだり はれ た 。 軒のき から とび 下りおり た 狐きつね は 、 直にじかに 広ひろ 庭にわ で 芋粥いもがゆ の 馳走ちそう に 、 与あずか 《 あづか 》 つたの で ある 。
五ご 位い は 、 芋粥いもがゆ を 飲んのん で ゐる 狐きつね を 眺めながめ ながら 、 此処ここ へ 来こ ない 前まえ の 彼かれ 自身じしん を 、 なつかしく 、 心こころ の 中なか で ふり 返かえ つ た 。 それ は 、 多くおおく の 侍さむらい たち に 愚弄ぐろう さ れ て ゐる 彼かれ で ある 。 京童きょうわらべ 《 き やう わらべ 》 に さ へ 「 何なに ぢ や 。 この 鼻はな 赤あか め が 」 と 、 罵らののしら れ て ゐる 彼かれ で ある 。 色いろ の さめ た 水干すいかん に 、 指貫ゆびぬき 《 さ し ぬ き 》 を つけ て 、 飼主かいぬし の ない 尨犬むくいぬ 《 むくい ぬ 》 の やう に 、 朱雀すざく 大路おおじ を うろつい て 歩くあるく 、 憐 む 可か き 、 孤独こどく な 彼かれ で ある 。 しかし 、 同時にどうじに 又また 、 芋粥いもがゆ に 飽きあき たい と 云うん ふ 慾望よくぼう を 、 唯一ゆいいつ 人じん 大事だいじ に 守もり つて ゐ た 、 幸福こうふく な 彼かれ で ある 。 ―― 彼かれ は 、 この 上うえ 芋粥いもがゆ を 飲まのま ず に すむ と 云うん ふ 安心あんしん と共にとともに 、 満面まんめん の 汗あせ が 次第にしだいに 、 鼻はな の 先さき から 、 乾いかわい て ゆく の を 感じかんじ た 。 晴れはれ て は ゐ て も 、 敦賀つるが の 朝あさ は 、 身み に しみる やう に 、 風かぜ が 寒いさむい 。 五ご 位い は 慌てあわて て 、 鼻はな を おさ へる と 同時にどうじに 銀ぎん 《 しろ が ね 》 の 提ひさげ に 向こう つて 大きなおおきな 嚔くさめ 《 く さ め 》 を し た 。
( 大正たいしょう 五ご 年ねん 八月はちがつ )
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