堀川ほりかわ の 大殿おとど 樣 《 お ほ と の さま 》 の やう な 方ほう は 、 これ まで は 固かた より 、 後ご の 世よ に は 恐らくおそらく 二に 人にん と は いら つ し やい ます まい 。 噂うわさ に 聞ききき ます と 、 あの 方ほう の 御ご 誕生たんじょう に なる 前まえ に は 、 大だい 威徳いとく 明王みょうおう の 御ご 姿すがた が 御ご 母はは 君くん 《 おん は ゝ ぎみ 》 の 夢枕ゆめまくら に お立ちおたち に なつ た とか 申すもうす 事こと で ござい ます が 、 兎うさぎ に 角すみ 御ご 生れつきうまれつき から 、 並々なみなみ の 人間にんげん と は 御ご 違 ひ に な つて ゐ た やう で ござい ます 。 で ござい ます から 、 あの 方ほう の 爲 《 な 》 さい まし た 事こと に は 、 一つひとつ として 私わたし ども の 意表いひょう に 出で て ゐ ない もの は ござい ませ ん 。 早いはやい 話はなし が 堀川ほりかわ の お 邸やしき の 御ご 規模きぼ を 拜 見み 致しいたし まし て も 、 壯つよし 大だい と 申しもうし ませ う か 、 豪放ごうほう と 申しもうし ませ う か 、 到底とうてい 私わたし ども の 凡慮ぼんりょ に は 及ばおよば ない 、 思ひおもひ 切き つた 所しょ が ある やう で ござい ます 。 中なか に は また 、 そこ を 色々いろいろ と あげつら つて 大殿おとど 樣 の 御ご 性行せいこう を 始皇帝しこうてい や 煬 帝みかど 《 やう だい 》 に 比べるくらべる もの も ござい ます が 、 それ は 諺ことわざ に 云うん ふ 群盲ぐんもう の 象ぞう を 撫でるなでる やう な もの で も ござい ませ う か 。 あの 方ほう の 御ご 思召おぼしめし は 、 決してけっして その やう に 御ご 自分じぶん ばかり 、 榮さかえ 耀 榮さかえ 華はな を なさら う と 申すもうす の で は ござい ませ ん 。 それ より は もつ と 下々しもじも の 事こと まで 御ご 考こう へ に なる 、 云うん は ば 天下てんか と共にとともに 樂 しむ と でも 申しもうし さ う な 、 大だい 腹中ふくちゅう の 御ご 器量きりょう が ござい まし た 。
それ で ござい ます から 、 二條にじょう 大宮おおみや の 百鬼夜行ひゃっきやこう に 御ご 遇ぐう ひ に な つて も 、 格別かくべつ 御ご 障りさわり が なかつ た の で ござい ませ う 。 又また 陸りく 奧 の 鹽 竈かまど の 景色けしき を 寫しうつし た ので 名高いなだかい あの 東三ひがしさん 條じょう の 河原院かわらのいん に 、 夜よる な / \ 現げん はれる と 云うん ふ 噂うわさ の あつ た 融とおる 《 と ほる 》 の 左大臣さだいじん の 靈 で さ へ 、 大殿おとど 樣 の お 叱りしかり を 受けうけ て は 、 姿すがた を 消しけし た のに 相違そうい ござい ます まい 。 か やう な 御ご 威光いこう で ござい ます から 、 その 頃ころ 洛中らくちゅう の 老若男女ろうにゃくなんにょ が 、 大殿おとど 樣 と 申しもうし ます と 、 まるで 權 者しゃ 《 ご ん じ や 》 の 再さい 來 の やう に 尊とうと み 合ごう ひ まし た も 、 決してけっして 無理むり で は ござい ませ ん 。 何時ぞやいつぞや 、 内うち の 梅花ばいか の 宴うたげ から の 御ご 歸 り に 御ご 車くるま の 牛うし が 放れはなれ て 、 折おり から 通りとおり か ゝ つた 老人ろうじん に 怪我けが を さ せ まし た 時とき で さ へ 、 その 老人ろうじん は 手て を 合せあわせ て 、 大殿おとど 樣 の 牛うし に かけ られ た 事こと を 難なん 有ゆう が つた と 申すもうす 事こと で ござい ます 。
さ やう な 次第しだい で ござい ます から 、 大殿おとど 樣 御ご 一いち 代だい の 間ま に は 、 後々あとあと まで も 語りかたり 草くさ に なり ます やう な 事こと が 、 隨 分ぶん 澤山さわやま に ござい まし た 。 大だい 饗きょう 《 お ほ みうけ 》 の 引出物ひきでもの に 白馬はくば 《 あ を うま 》 ばかり を 三さん 十じゅう 頭とう 、 賜たまもの つ た こと も ござい ます し 、 長良ながら 《 ながら 》 の 橋はし の 橋はし 柱ばしら 《 は しばし ら 》 に 御ご 寵愛ちょうあい の 童わらべ 《 わらべ 》 を 立てたて た 事こと も ござい ます し 、 それから 又また 華はな 陀 の 術じゅつ を 傳つとう へ た 震しん 旦だん 《 しんたん 》 の 僧そう に 、 御ご 腿もも の 瘡くさ 《 も がさ 》 を 御お 切らせきらせ に な つた 事ごと も ござい ます し 、 ―― 一々いちいち 數 へ 立てたて ゝ 居りおり まし て は 、 とても 際限さいげん が ござい ませ ん 。 が 、 その 數 多いおおい 御ご 逸事いつじ の 中なか でも 、 今いま で は 御家おいえ の 重じゅう 寳たから に な つて 居りおり ます 地獄じごく 變 の 屏風びょうぶ の 由よし 來 程ほど 、 恐ろしいおそろしい 話はなし は ござい ます まい 。 日頃ひごろ は 物もの に 御ご 騷 ぎにならない 大殿おとど 樣 で さ へ 、 あの 時とき ばかり は 、 流石さすが に 御ご 驚きおどろき に なつ た やう で ござい まし た 。 まして 御ご 側がわ に 仕つかまつ へ て ゐ た 私わたし ども が 、 魂たましい も 消えるきえる ばかり に 思 つたの は 、 申し上げるもうしあげる まで も ござい ませ ん 。 中でもなかでも この 私わたし なぞ は 、 大殿おとど 樣 に も 二に 十じゅう 年ねん 來 御ご 奉公ほうこう 申しもうし て 居りおり まし た が 、 それで さ へ 、 あの やう な 凄すご じい 見物けんぶつ 《 み もの 》 に 出で 遇ぐう つた 事ごと は 、 ついぞ 又また と なかつ た 位くらい で ござい ます 。
しかし 、 その 御ご 話はなし を 致しいたし ます に は 、 豫 め 先さき づ 、 あの 地獄じごく 變 の 屏風びょうぶ を 描きえがき まし た 、 良りょう 秀しゅう 《 よし ひで 》 と 申すもうす 畫 師し の 事こと を 申し上げもうしあげ て 置くおく 必要ひつよう が ござい ませ う 。
✦ Peek良りょう 秀しゅう と 申しもうし まし たら 、 或はあるいは 唯今ただいま で も 猶なお 、 あの 男おとこ の 事こと を 覺さとる えて いら つ し やる 方ほう が ござい ませ う 。 その 頃ころ 繪え 筆ひつ を とり まし て は 、 良りょう 秀しゅう の 右みぎ に 出るでる もの は 一いち 人にん も ある まい と 申さもうさ れ た 位くらい 、 高名こうみょう な 繪え 師し で ござい ます 。 あの 時とき の 事こと が ござい まし た 時とき に は 、 彼是あれこれ もう 五ご 十じゅう の 阪ばん に 、 手て が と ゞ い て 居りおり まし たら う か 。 見み た 所ところ は 唯ただ 、 背せ の 低いひくい 、 骨ほね と 皮かわ ばかり に 痩せやせ た 、 意地いじ の 惡 さうな 老人ろうじん で ござい まし た 。 それ が 大殿おとど 樣 の 御ご 邸やしき へ 參 り ます 時とき に は 、 よく 丁字ていじ 染そめ 《 ちやう じ ぞ め 》 の 狩衣かりぎぬ に 揉 烏帽子えぼし 《 もみ ゑぼし 》 を かけ て 居りおり まし た が 、 人がらひとがら は 至いたり つて 卑しいいやしい 方ほう で 、 何故かなぜか 年とし より らしく も なく 、 脣 の 目立つめだつ て 赤いあかい の が 、 その 上うえ に 又また 氣 味み の 惡 い 、 如何にもいかにも 獸 めい た 心もちこころもち を 起さおこさ せ た もの で ござい ます 。 中なか に は あれ は 畫 筆ひつ を 舐ねぶ 《 な 》 め る ので 紅べに が つく の だ と 申しもうし た 人ひと も 居りおり まし た が 、 どう 云うん ふも の で ござい ませ う か 。 尤ももっとも それ より 口くち の 惡 い 誰彼だれかれ は 、 良りょう 秀しゅう の 立居振舞たちいふるまい 《 たち ゐ ふる まひ 》 が 猿さる の やう だ とか 申しもうし まし て 、 猿さる 秀しゅう と 云うん ふ 諢 名めい 《 あだな 》 まで つけ た 事こと が ござい まし た 。
いや 猿さる 秀しゅう と 申せもうせ ば 、 か やう な 御ご 話はなし も ござい ます 。 その 頃ころ 大殿おとど 樣 の 御ご 邸やしき に は 、 十じゅう 五ご に なる 良よ 秀しゅう の 一人娘ひとりむすめ が 、 小しょう 女房にょうぼう 《 こね う ぼう 》 に 上うえ つて 居りおり まし た が 、 これ は 又また 生みの親うみのおや に は 似に も つか ない 、 愛嬌あいきょう の ある 娘むすめ 《 こ 》 で ござい まし た 。 その 上うえ 早くはやく 女おんな 親おや に 別れわかれ まし たせ ゐ か 、 思ひおもひ やり の 深いふかい 、 年とし より は ませ た 、 悧 巧たくみ な 生れつきうまれつき で 、 年とし の 若いわかい の に も 似に ず 、 何かとなにかと よく 氣 が つく もの で ござい ます から 、 御ご 臺 樣 を 始めはじめ 外がい の 女房にょうぼう たち に も 、 可愛がらかわいがら れ て 居い た やう で ござい ます 。
すると 何なに か の 折おり に 、 丹波たんば の 國くに から 人馴れひとなれ た 猿さる を 一いち 匹ひき 、 獻 上じょう し た もの が ござい まし て 、 それに 丁度ちょうど | 惡 戯 盛もり 《 い た づら さ か 》 り の 若殿わかとの 樣 が 、 良りょう 秀しゅう と 云うん ふ 名な を 御ご つけ に なり まし た 。 唯ただ で さ へ その 猿さる の 容子ようす が 可か 笑えみ 《 を か 》 しい 所しょ へ 、 か やう な 名な が つい た の で ござい ます から 、 御ご 邸やしき 中ちゅう 誰だれ 一いち 人にん 笑えみ は ない もの は ござい ませ ん 。 それ も 笑えみ ふ ばかり なら よろし う ござい ます が 、 面白おもしろ 半分はんぶん に 皆みな の もの が 、 やれ 御ご 庭にわ の 松まつ に 上うえ つたの 、 やれ 曹司ぞうし の 疊 を よごし た の と 、 その 度ど 毎ごと に 、 良よ 秀しげる 々 々 と 呼び立てよびたて ゝ は 、 兎うさぎ に 角いかくい ぢ め た がる の で ござい ます 。
所ところ が 或ある 日ひ の 事こと 、 前まえ に 申しもうし まし た 良りょう 秀しゅう の 娘むすめ が 、 御ご 文ぶん を 結んむすん だ 寒紅かんべに 梅うめ の 枝えだ を 持つもつ て 、 長いながい 御ご 廊下ろうか を 通りとおり か ゝ り ます と 、 遠くとおく の 遣戸やりど 《 やり ど 》 の 向うむこう から 、 例れい の 小しょう 猿さる の 良りょう 秀しゅう が 、 大方おおかた 足あし で も 挫 い た の で ござい ませ う 、 何時もいつも の やう に 柱はしら へ 驅 け 上るのぼる 元もと 氣 も なく 、 跛ちんば 《 びつこ 》 を 引きひき / \ 、 一散いっさん に 、 逃げにげ て 參 る の で ござい ます 。 しかも その後そのご から は 楚すわえ 《 す ば え 》 を ふり 上げあげ た 若殿わかとの 樣 が 「 柑子こうじ 盜 人じん 《 かう じ ぬ す びと 》 め 、 待てまて 。 待てまて 。 」 と 仰おっしゃ 有りあり ながら 、 追つい ひ かけ て いら つ し やる の で は ご さい ませ ん か 。 良りょう 秀しゅう の 娘むすめ は これ を 見み ます と 、 ちよい と の 間はざま ため ら つ た やう で ござい ます が 、 丁度ちょうど その 時とき 逃げにげ て 來 た 猿さる が 、 袴はかま の 裾すそ に すがり ながら 、 哀れあわれ な 聲 を 出しだし て 啼きなき 立てたて まし た ―― と 、 急きゅう に 可か 哀 さ う だ と 思ふおもふ 心こころ が 、 抑そもそも へ 切れきれ なく な つたの で ござい ませ う 。 片手かたて に 梅うめ の 枝えだ を かざし た 儘 片手かたて に 紫むらさき 匂におい 《 むら さき に ほ ひ 》 の 袿うちぎ 《 う ちぎ 》 の 袖そで を 輕 さ うに はらりと 開きひらき ます と 、 やさしく その 猿さる を 抱き上げだきあげ て 、 若殿わかとの 樣 の 御前ごぜん に 小腰こごし を か ゞ め ながら 「 恐れながらおそれながら 畜生ちくしょう で ござい ます 。 どうか 御ご 勘かん 辨 遊ばしあそばし まし 。 」 と 、 涼しいすずしい 聲 で 申し上げもうしあげ まし た 。
が 、 若殿わかとの 樣 の 方ほう は 、 氣 負まけ 《 き お 》 つて 驅 け て お出でおいで に な つた 所しょ で ござい ます から 、 むづかしい 御ご 顏 を なす つて 、 二に 三さん 度ど 御お み 足あし を 御ご 踏 鳴な 《 お ふみ なら 》 し に なり ながら 、
「 何でなんで か ば ふ 。 その 猿さる は 柑子こうじ 盜 人じん 《 かう じ ぬ す びと 》 だ ぞ 。 」
「 畜生ちくしょう で ござい ます から 、 … … 」
娘むすめ は もう一度もういちど かう 繰返しくりかえし まし た が やがて 寂しさびし さ うに ほほ笑みほほえみ ます と 、
「 それに 良りょう 秀しゅう と 申しもうし ます と 、 父ちち が 御ご 折檻せっかん を 受けうけ ます やう で 、 どうも 唯ただ 見み て は 居らおら れ ませ ぬ 。 」 と 、 思ひおもひ 切き つ た やう に 申すもうす の で ござい ます 。 これ に は 流石さすが の 若殿わかとの 樣 も 、 我わが 《 が 》 を 御お 折りおり に な つたの で ござい ませ う 。
「 さ う か 。 父親ちちおや の 命いのち 乞 《 いのち ご ひ 》 なら 、 枉げまげ て 赦しゆるし て とら す と しよ う 。 」
不承ふしょう 無な 承うけたまわ に かう 仰おっしゃ 有るある と 、 楚すわえ 《 す ば え 》 を そこ へ 御お 捨てすて に な つて 、 元もと い らし つた 遣戸やりど の 方ほう へ 、 その 儘 御ご 歸 り に なつ て しまひ まし た 。
✦ Peek良りょう 秀しゅう の 娘むすめ と この 小しょう 猿さる と の 仲なか が よく な つたの は 、 それ から の 事こと で ござい ます 。 娘むすめ は 御姫おひめ 樣 から 頂戴ちょうだい し た 黄金おうごん の 鈴すず を 、 美しいうつくしい 眞まこと 紅べに 《 しん く 》 の 紐ひも に 下げさげ て 、 それ を 猿さる の 頭あたま へ 懸けかけ て やり ます し 、 猿さる は 又また どんな 事こと が ござい まし て も 、 滅多めった に 娘むすめ の 身み の ま はり を 離れはなれ ませ ん 。 或ある 時とき 娘むすめ の 風邪かぜ 《 かぜ 》 の 心地ここち で 、 床ゆか に 就きつき まし た 時とき など も 、 小しょう 猿さる は ちや ん と その 枕まくら もと に 坐りこんすわりこん で 、 氣 のせ ゐ か 心細こころぼそ さ う な 顏 を し ながら 、 頻しき に 爪つめ を 噛んかん で 居りおり まし た 。
かう なる と 又また 妙みょう な もの で 、 誰だれ も 今いま まで の やう に この 小しょう 猿さる を 、 い ぢ め る もの は ござい ませ ん 。 いや 、 反はん つて だ ん / \ 可愛がりかわいがり 始めはじめ て 、 し まひ に は 若殿わかとの 樣 で さ へ 、 時々ときどき 柿かき や 栗くり を 投げなげ て 御お やり に なつ た ばかり か 、 侍さむらい の 誰だれ やら が この 猿さる を 足蹴あしげ に し た 時とき なぞ は 、 大層たいそう 御ご 立腹りっぷく に も なつ たさ う で ござい ます 。 その後そのご 大殿おとど 樣 が わざ / \ 良りょう 秀しゅう の 娘むすめ に 猿さる を 抱いだい て 、 御前ごぜん へ 出るでる やう と 御沙汰ごさた に な つたの も 、 この 若殿わかとの 樣 の 御ご 腹はら 立りつ に な つた 話ばなし を 、 御ご 聞ききき に な つて から だ とか 申しもうし まし た 。 その 序じょ に 自然しぜん と 娘むすめ の 猿さる を 可愛がるかわいがる 所由しょゆう 《 いは れ 》 も 御ご 耳みみ に は い つ た の で ござい ませ う 。
「 孝行こうこう な 奴やっこ ぢ や 。 褒めほめ て とら す ぞ 。 」
か やう な 御意ぎょい で 、 娘むすめ は その 時とき 、 紅べに 《 くれ な ゐ 》 の 袙 《 あ こめ 》 を 御ご 褒美ほうび に 頂きいただき まし た 。 所ところ が この 袙 を 又また 見み やう 見み 眞まこと 似に に 、 猿さる が 恭しくうやうやしく 押 頂きいただき まし た ので 、 大殿おとど 樣 の 御ご 機嫌きげん は 、 一入ひとしお よろし かつ たさ う で ござい ます 。 で ござい ます から 、 大殿おとど 樣 が 良りょう 秀しゅう の 娘むすめ 御お を 贔屓ひいき に な つたの は 、 全くまったく この 猿さる を 可愛かわい が つた 、 孝行こうこう 恩愛おんあい の 情じょう を 御ご 賞美しょうび なす つ た ので 、 決してけっして 世間せけん で 兎うさぎ や 角かく 申しもうし ます やう に 、 色いろ を 御ご 好みこのみ に なつ た 譯 で は ござい ませ ん 。 尤ももっとも か やう な 噂うわさ の 立ちたち まし た 起りおこり も 、 無理むり の ない 所ところ が ござい ます が 、 それ は 又また 後ご に な つて 、 ゆ つくり 御お 話しはなし 致しいたし ませ う 。 こ ゝ で は 唯ただ 大殿おとど 樣 が 、 如何いかが に 美しいうつくしい に し た 所ところ で 、 繪え 師し 風情ふぜい の 娘むすめ など に 、 想そう ひ を 御お 懸けかけ に なる 方ほう で は ない と 云うん ふ 事こと を 、 申し上げもうしあげ て 置けおけ ば 、 よろし う ござい ます 。
さて 良りょう 秀しゅう の 娘むすめ は 、 面目めんぼく を 施しほどこし て 御前ごぜん を 下りおり まし た が 、 元もと より 悧 巧たくみ な 女おんな で ござい ます から 、 はしたない 外そと の 女房にょうぼう たち の 妬 《 ねたみ 》 を 受けるうける やう な 事こと も ござい ませ ん 。 反はん つて それ 以 來 、 猿さる と 一いち しよ に 何かとなにかと いとし がら れ まし て 、 取分けとりわけ 御姫おひめ 樣 の 御ご 側がわ から は 御お 離れはなれ 申しもうし た 事こと が ない と 云うん つて も よろしい 位くらい 、 物見ものみ 車しゃ の 御供ごくう に も ついぞ 缺 けた 事ごと は ござい ませ ん でし た 。
が 、 娘むすめ の 事こと は 一いち 先さき づ 措きおき まし て 、 これから 又また 親おや の 良りょう 秀しゅう の 事こと を 申し上げもうしあげ ませ う 。 成なる 程ほど 猿さる の 方ほう は 、 か やう に 間もなくまもなく 、 皆みな の もの に 可愛がらかわいがら れる やう に なり まし た が 、 肝腎かんじん の 良りょう 秀しゅう は やはり 誰だれ に でも 嫌いや はれ て 、 相あい 不ふ 變 《 あ ひか はら ず 》 陰かげ へま は つて は 、 猿さる 秀しゅう 呼こ り を さ れ て 居りおり まし た 。 しかも それ が 又また 、 御ご 邸やしき の 中なか ばかり で は ござい ませ ん 。 現にげんに 横川よこかわ 《 よ が は 》 の 僧都そうず 樣 も 、 良りょう 秀しゅう と 申しもうし ます と 、 魔障ましょう に でも 御ご 遇ぐう ひ に なつ た やう に 、 顏 の 色いろ を 變 へ て 、 御ご 憎みにくみ 遊ばしあそばし まし た 。 ( 尤ももっとも これ は 良りょう 秀しゅう が 僧都そうず 樣 の 御ご 行状ぎょうじょう を 戯 畫 《 ざれ ゑ 》 に 描いえがい た から だ など と 申しもうし ます が 、 何分なにぶん 下しも ざま の 噂うわさ で ござい ます から 、 確 に 左ひだり 樣 と は 申さもうさ れ ます まい 。 ) 兎うさぎ に 角かく 、 あの 男おとこ の 不評判ふひょうばん は 、 どちら の 方ほう に 伺ひうかがひ まし て もさ う 云うん ふ 調子ちょうし ばかり で ござい ます 。 もし 惡 く 云うん は ない もの が あつ た と 致しいたし ます と 、 それ は 二に 三さん 人にん の 繪え 師し 仲間なかま か 、 或はあるいは 又また 、 あの 男おとこ の 繪え を 知ち つ てる だけ で 、 あの 男おとこ の 人間にんげん は 知らしら ない もの ばかり で ござい ませ う 。
しかし 實みのる 際さい 、 良りょう 秀しゅう に は 、 見み た 所ところ が 卑しいやし かつ た ばかり で なく 、 もつ と 人ひと に 嫌がらいやがら れる 惡 い 癖くせ が あつ た の で ござい ます から 、 それ も 全くまったく 自業自得じごうじとく と でも なす より 外そと に 、 致し方いたしかた は ござい ませ ん 。
✦ Peekその 癖くせ と 申しもうし ます の は 、 吝嗇りんしょく で 、 慳貪けんどん で 、 恥知らずはじしらず で 、 怠けものなまけもの で 、 強慾ごうよく で ―― いや その 中なか でも 取分けとりわけ 甚 し い の は 、 横柄おうへい で 高慢こうまん で 、 何時もいつも 本朝ほんちょう 第だい 一いち の 繪え 師し と 申すもうす 事こと を 、 鼻はな の 先さき へ ぶら下げぶらさげ て ゐる 事こと で ござい ませ う 。 それ も 畫 道どう の 上うえ ばかり なら まだしも で ござい ます が 、 あの 男おとこ の 負け惜しみまけおしみ に なり ます と 、 世間せけん の 習慣しゅうかん 《 なら はし 》 とか 慣例かんれい 《 しきたり 》 とか 申すもうす やう な もの まで 、 すべて 莫迦ばか に 致さいたさ ず に は 置かおか ない の で ござい ます 。 これ は 永年えいねん 良りょう 秀しゅう の 弟子でし に な つて ゐ た 男おとこ の 話はなし で ござい ます が 、 或ある 日ひ さる 方ほう の 御ご 邸やしき で 名高いなだかい 檜垣ひがき 《 ひ がき 》 の 巫女みこ 《 みこ 》 に 御ご 靈 《 ご りや う 》 が 憑 《 つ 》 い て 、 恐しこわし い 御託宣ごたくせん が あつ た 時とき も 、 あの 男おとこ は 空耳そらみみ 《 そら み ゝ 》 を 走らはしら せ ながら 、 有ゆう 合せあわせ た 筆ふで と 墨すみ と で 、 その 巫女みこ 《 みこ 》 の 物凄いものすごい 顏 を 、 丁寧ていねい に 寫しうつし て 居い つ た とか 申しもうし まし た 。 大方おおかた 御ご 靈 の 御ご 祟たたり 《 お た ゝ 》 り も 、 あの 男おとこ の 眼め から 見み まし た なら 、 子供こども 欺 し 位い に しか 思はおもは れ ない の で ござい ませ う 。
さ やう な 男おとこ で ござい ます から 、 吉祥天きちじょうてん を 描くえがく 時とき は 、 卑しいいやしい 傀儡かいらい 《 くぐつ 》 の 顏 を 寫しうつし まし たり 、 不動明王ふどうみょうおう を 描くえがく 時とき は 、 無頼ぶらい の 放免ほうめん 《 はう めん 》 の 姿すがた を 像ぞう り まし たり 、 いろ / \ の 勿 體 ない 眞まこと 似に を 致しいたし まし た が 、 それでも 當 人じん を 詰りなじり ます と 「 良りょう 秀しゅう の 描 《 か 》 い た 神かみ 佛ほとけ が その 良りょう 秀しゅう に 冥罰みょうばつ を 當 てら れる と は 、 異こと な 事こと を 聞くきく もの ぢ や 」 と 空そら 嘯 《 そら うそ ぶ 》 い て ゐる で は ござい ませ ん か 。 これ に は 流石さすが の 弟子でし たち も 呆れ返あきれかえ つ て 、 中なか に は 未來みき の 恐ろしおそろし さ に 、 ※ 々 暇ひま を とつ た もの も 、 少くすくなく なかつ た やう に 見み うけ まし た 。 ―― 先さき づ 一いち 口くち に 申しもうし まし た なら 、 慢 業ぎょう 重じゅう 疊 《 ま ん ご ふち よう で ふ 》 と でも 名づけなづけ ませ う か 。 兎うさぎ に 角かく 當 時じ | 天てん 《 あめ 》 が 下した 《 し た 》 で 、 自分じぶん 程ほど の 偉えら 《 えら 》 い 人間にんげん は ない と 思 つて ゐ た 男おとこ で ござい ます 。
從 つて 良りょう 秀しゅう が どの 位くらい 畫 道どう で も 、 高くたかく 止とめ つて 居りおり まし た か は 、 申し上げるもうしあげる まで も ござい ます まい 。 尤ももっとも その 繪え で さ へ 、 あの 男おとこ の は 筆ふで 使し ひで も 彩色さいしき で も 、 まるで 外そと の 繪え 師し と は 違 つて 居りおり まし た から 、 仲なか の 惡 い 繪え 師し 仲間なかま で は 、 山師やまし だ など と 申すもうす 評判ひょうばん も 、 大分だいぶ あつ た やう で ござい ます 。 その 連中れんちゅう の 申しもうし ます に は 、 川成かわなり 《 か は なり 》 とか 金岡かなおか 《 かな を か 》 とか 、 その 外そと 昔むかし の 名匠めいしょう の 筆ふで に なつ た 物もの と 申しもうし ます と 、 やれ 板戸いたど の 梅うめ の 花はな が 、 月つき の 夜毎よごと に 匂におい つたの 、 やれ 屏風びょうぶ の 大宮人おおみやびと 《 お ほ みや びと 》 が 、 笛ふえ を 吹くふく 音おと さ へ 聞えきこえ た の と 、 優美ゆうび な 噂うわさ が 立つたつ て ゐる もの で ござい ます が 、 良りょう 秀しゅう の 繪え に なり ます と 、 何なん 時じ でも 必ずかならず 氣 味み の 惡 い 、 妙みょう な 評判ひょうばん だけ しか 傳つとう はり ませ ん 。 譬へばたとへば あの 男おとこ が 龍りゅう 蓋ふた 寺てら の 門もん へ 描 《 か 》 き まし た 、 五ご | 趣おもむき 《 し ゆ 》 生死せいし 《 し や うじ 》 の 繪え に 致しいたし まし て も 、 夜よる 更さら 《 よ ふ 》 け て 門もん の 下した を 通りとおり ます と 、 天人てんにん の 嘆息たんそく 《 ためいき 》 を つく 音おと や 啜り泣きすすりなき を する 聲 が 、 聞えきこえ た と 申すもうす 事こと で ござい ます 。 いや 、 中なか に は 死人しにん の 腐くさ つ て 行くいく 臭におい 氣 を 、 嗅いかい だ と 申すもうす もの さ へ ござい まし た 。 それから 大殿おとど 樣 の 御ご 云うん ひ つけ で 描 《 か 》 い た 、 女房にょうぼう たち の 似に 繪え 《 にせ ゑ 》 など も 、 その 繪え に 寫さうつさ れ た ゞ け の 人間にんげん は 、 三さん 年ねん と 盡 た ない 中なか に 、 皆みな 魂たましい の 拔 けた やう な 病やまい 氣 に な つて 、 死んしん だ と 申すもうす で は ござい ませ ん か 。 惡 く 云うん ふも のに 申さもうさ せ ます と 、 それ が 良りょう 秀しゅう の 繪え の 邪道じゃどう に 落ちおち て ゐる 、 何よりなにより の 證 據 ださ う で ござい ます 。
が 、 何分なにぶん 前まえ に も 申し上げもうしあげ まし た 通りとおり 、 横紙破りよこがみやぶり な 男おとこ で ござい ます から 、 それ が 反はん つて 良りょう 秀しゅう は 大だい 自慢じまん で 、 何時ぞやいつぞや 大殿おとど 樣 が 御ご 冗談じょうだん に 、 「 その 方ほう は 兎角とかく 醜いみにくい もの が 好きすき と 見えるみえる 。 」 と 仰おっしゃ 有ゆう つた 時じ も 、 あの 年とし に 似に ず 赤いあかい 脣 で にやりと 氣 味み 惡 く 笑えみ ひ ながら 、 「 さ やう で ご ざり まする 。 かいなで の 繪え 師し に は 總さとし じ て 醜いみにくい もの ゝ 美しうつくし さ など と 申すもうす 事こと は 、 わから う 筈はず が ござい ませ ぬ 。 」 と 、 横柄おうへい に 御ご 答こたえ へ 申し上げもうしあげ まし た 。 如何いかが に 本朝ほんちょう 第だい 一いち の 繪え 師し に 致せいたせ 、 よくも 大殿おとど 樣 の 御前ごぜん へ 出で て 、 その やう な 高言こうげん が 吐けはけ た もの で ござい ます 。 先刻せんこく 引合ひきあい に 出しだし まし た 弟子でし が 、 内々うちうち 師匠ししょう に 「 智さとし 羅ら 永ひさし 壽ことぶき 《 ちら えいじ ゆ 》 」 と 云うん ふ 諢 名めい を つけ て 、 増長ぞうちょう 慢 を 譏そし つて 居りおり まし た が 、 それ も 無理むり は ござい ませ ん 。 御ご 承知しょうち で も ござい ませ う が 、 「 智さとし 羅ら 永ひさし 壽ことぶき 」 と 申しもうし ます の は 、 昔むかし 震しん 旦だん から 渡わたり つて 參 り まし た 天狗てんぐ の 名な で ござい ます 。
しかし この 良りょう 秀しゅう に さ へ ―― この 何ともなんとも 云うん ひ やう の ない 、 横道よこみち 者しゃ の 良りょう 秀しゅう に さ へ 、 たつ た 一つひとつ 人間らしいにんげんらしい 、 情愛じょうあい の ある 所ところ が ござい まし た 。
✦ Peekと 申しもうし ます の は 、 良りょう 秀しゅう が 、 あの 一人娘ひとりむすめ の 小しょう 女房にょうぼう を まるで 氣 違 ひ の やう に 可愛かわい が つて ゐ た 事こと で ござい ます 。 先刻せんこく 申し上げもうしあげ まし た 通りとおり 、 娘むすめ も 至いたり つて 氣 の やさしい 、 親おや 思ひおもひ の 女おんな で ござい まし た が 、 あの 男の子おとこのこ 煩はん 惱 は 、 決してけっして それ に も 劣りおとり ます まい 。 何しろなにしろ 娘むすめ の 着るきる 物もの とか 、 髮 飾かざり とか の 事こと と 申しもうし ます と 、 どこ の 御ご 寺てら の 勸 進しん に も 喜捨きしゃ を し た 事こと の ない あの 男おとこ が 、 金きむ 錢 に は 更にさらに 惜しおし 氣 も なく 、 整せい へ て やる と 云うん ふ の で ござい ます から 、 嘘うそ の やう な 氣 が 致すいたす で は ござい ませ ん か 。
が 、 良りょう 秀しゅう の 娘むすめ を 可愛がるかわいがる の は 、 唯ただ 可愛がるかわいがる だけ で 、 やがて よい 聟むこ を とら う など と 申すもうす 事こと は 、 夢にもゆめにも 考へかんがへ て 居りおり ませ ん 。 それ 所しょ か 、 あの 娘むすめ へ 惡 く 云うん ひ 寄るよる もの で も ござい まし たら 、 反はん つて 辻つじ 冠者かんじゃ 《 つ じ くわ ん じ や 》 ばら で も 驅 り 集めあつめ て 、 暗くら 打だ 《 やみ うち 》 位くらい は 喰 は せ 兼ねかね ない 量りょう 見み で ござい ます 。 で ござい ます から 、 あの 娘むすめ が 大殿おとど 樣 の 御ご 聲 が ゝ り で 小しょう 女房にょうぼう に 上りのぼり まし た 時とき も 、 老爺ろうや 《 おや ぢ 》 の 方ほう は 大だい 不服ふふく で 、 當 座ざ の 間ま は 御前ごぜん へ 出で て も 、 苦り切にがりき つて ばかり 居りおり まし た 。 大殿おとど 樣 が 娘むすめ の 美しいうつくしい の に 御ご 心こころ を 惹かひか さ れ て 、 親おや の 不承知ふしょうち な の も かま はず に 、 召し上げめしあげ た など と 申すもうす 噂うわさ は 、 大方おおかた か やう な 容子ようす を 見み た もの ゝ 當 推量すいりょう 《 あて ず ゐ り やう 》 から 出で た の で ござい ませ う 。
尤ももっとも 其 噂うわさ は 嘘うそ で ござい まし て も 、 子こ 煩はん 惱 の 一心いっしん から 、 良りょう 秀しゅう が 始終しじゅう 娘むすめ の 下るくだる やう に 祈いの つて 居りおり まし た の は 確 で ござい ます 。 或ある 時とき 大殿おとど 樣 の 御ご 云うん ひ つけ で 、 稚いとけな 兒 文殊もんじゅ 《 ちご もん じ ゆ 》 を 描きえがき まし た 時とき も 、 御ご 寵愛ちょうあい の 童わらべ 《 わらべ 》 の 顏 《 か ほ 》 を 寫しうつし まし て 、 見事みごと な 出しゅつ 來 で ござい まし た から 、 大殿おとど 樣 も 至極しごく 御ご 滿みつる 足あし で 、
「 褒美ほうび に も 望みのぞみ の 物もの を 取らせるとらせる ぞ 。 遠慮なくえんりょなく 望めのぞめ 。 」 と 云うん ふ 難なん 有ゆう い 御言みこと が 下りおり まし た 。 すると 良りょう 秀しゅう は 畏まかしこま つ て 、 何なに を 申すもうす か と 思ひおもひ ます と 、
「 何卒なにとぞ 私わたし の 娘むすめ を ば 御お 下げさげ 下さいください ます る やう に 。 」 と 臆面おくめん も なく 申し上げもうしあげ まし た 。 外そと の お 邸やしき なら ば 兎うさぎ も 角かく も 、 堀河ほりかわ の 大殿おとど 樣 の 御ご 側がわ に 仕つかまつ へ て ゐる の を 、 如何いかが に 可愛いかわいい から と 申しもうし まし て 、 か やう に 無む 躾しつけ 《 ぶし つけ 》 に 御ご 暇ひま を 願ねがい ひ ます もの が 、 どこ の 國くに に 居りおり ませ う 。 これ に は 大だい 腹中ふくちゅう の 大殿おとど 樣 も 聊かいささか 御機嫌ごきげん を 損じそんじ た と 見えみえ まし て 、 暫くしばらく は 唯ただ 默 つて 良りょう 秀しゅう の 顏 を 眺めながめ て 御ご 居きょ で に なり まし た が 、 やがて 、
「 それ は なら ぬ 。 」 と 吐出としゅつ 《 はき だ 》 す やう に 仰おっしゃ 有るある と 、 急きゅう に その 儘 御ご 立ちたち に なつ て しまひ まし た 。 か やう な 事こと が 、 前後ぜんご 四よん 五ご 遍へん も ござい まし たら う か 。 今にいまに な つて 考へかんがへ て 見み ます と 、 大殿おとど 樣 の 良りょう 秀しゅう を 御ご 覽 に なる 眼め は 、 その 都度つど に だんだん と 冷やかひややか に なつ てい らし つ た やう で ござい ます 。 すると 又また 、 それ に つけ て も 、 娘むすめ の 方ほう は 父親ちちおや の 身み が 案じあんじ られる せ ゐ で ゞ も ござい ます か 、 曹司ぞうし へ 下しも つて ゐる 時とき など は 、 よく 袿うちぎ の 袖そで を 噛んかん で 、 しく / \ 泣いない て 居りおり まし た 。 そこで 大殿おとど 樣 が 良りょう 秀しゅう の 娘むすめ に 懸想けそう なす つた など と 申すもうす 噂うわさ が 、 愈々いよいよ | 擴 《 ひろ 》 がる やう に なつ た の で ござい ませ う 。 中なか に は 地獄じごく 變 の 屏風びょうぶ の 由よし 來 も 、 實みのる は 娘むすめ が 大殿おとど 樣 の 御意ぎょい に 從 は なかつ た から だ など と 申すもうす もの も 居りおり ます が 、 元もと より さ やう な 事こと が ある 筈はず は ござい ませ ん 。
私わたし ども の 眼め から 見み ます と 、 大殿おとど 樣 が 良りょう 秀しゅう の 娘むすめ を 御ご 下げさげ に なら なかつ た の は 、 全くまったく 娘むすめ の 身の上みのうえ を 哀れあわれ に 思召おぼしめし し た から で 、 あの やう に 頑 《 かたくな 》 な 親おや の 側がわ へ やる より は 御ご 邸やしき に 置いおい て 、 何なに の 不自由ふじゆう なく 暮さくらさ せ て やら う と 云うん ふ 難なん 有ゆう い 御ご 考こう へ だ つ た やう で ござい ます 。 それ は 元もと より 氣 立てだて の 優しいやさしい あの 娘むすめ を 、 御ご 贔屓ひいき に な つたの に は 間ま 違 ひ ござい ませ ん 。 が 、 色いろ を 御ご 好みこのみ に なつ た と 申しもうし ます の は 、 恐らくおそらく 牽強けんきょう 附ふ 會 の 説せつ で ござい ませ う 。 いや 、 跡あと 方かた も ない 嘘うそ と 申しもうし た 方ほう が 、 宜しいよろしい 位くらい で ござい ます 。 ――
それ は 兎うさぎ も 角かく も と 致しいたし まし て 、 か やう に 娘むすめ の 事こと から 良りょう 秀しゅう の 御ご 覺さとる え が 大分おおいた 惡 く な つて 來 た 時とき で ござい ます 。 どう 思召おぼしめし し た か 、 大殿おとど 樣 は 突然とつぜん 良りょう 秀しゅう を 御召おめし に な つて 、 地獄じごく 變 の 屏風びょうぶ を 描くえがく やう に と 、 御ご 云うん ひ つけ なさい まし た 。
✦ Peek地獄じごく 變 の 屏風びょうぶ と 申しもうし ます と 、 私わたし は もう あの 恐ろしいおそろしい 畫 面めん の 景色けしき が 、 ありあり と 眼め の 前まえ へ 浮んうかん で 來 る やう な 氣 が 致しいたし ます 。
同じおなじ 地獄じごく 變 と 申しもうし まし て も 、 良りょう 秀しゅう の 描きえがき まし た の は 、 外そと の 繪え 師し の に 比べくらべ ます と 、 第だい 一いち 圖 取りとり から 似に て 居りおり ませ ん 。 それ は 一いち 帖じょう の 屏風びょうぶ の 片隅かたすみ へ 、 小さくちいさく 十じゅう 王おう を 始めはじめ 眷 屬 たち の 姿すがた を 描いえがい て 、 あと は 一いち 面めん に 紅蓮ぐれん 大だい 紅蓮ぐれん 《 ぐれん だい ぐれん 》 の 猛火もうか が 、 劍 山刀やまがたな 樹じゅ も 爛れるただれる か と 思ふおもふ 程ほど 渦うず を 卷いまい て 居りおり まし た 。 で ござい ます から 、 唐とう 《 から 》 めい た 冥めい 官かん 《 め うく わん 》 たち の 衣裳いしょう が 、 點 々 と 黄き や 藍あい を 綴つづり つて 居りおり ます 外そと は 、 どこ を 見み て も 烈々れつれつ と し た 火焔かえん の 色いろ で 、 その 中なか を まるで 卍まんじ の やう に 、 墨すみ を 飛ばしとばし た 黒くろ 煙けむり と 金粉きんぷん を 煽あふ つ た 火の粉ひのこ と が 、 舞まい ひ 狂きょう つて 居るいる の で ござい ます 。
これ ばかり で も 、 隨 分ぶん 人じん の 目め を 驚かすおどろかす 筆勢ひっせい で ござい ます が 、 その 上うえ に 又また 、 業火ごうか 《 ご ふく わ 》 に 燒 《 や 》 かれ て 、 轉 々 と 苦しんくるしん で 居りおり ます 罪人ざいにん も 、 殆どほとんど 一いち 人にん として 通例つうれい の 地獄じごく 繪え に ある もの は ござい ませ ん 。 何故なぜ 《 なぜ 》 か と 申しもうし ます と 良よ 秀しゅう は 、 この 多くおおく の 罪人ざいにん の 中なか に 、 上うえ は 月卿雲客げっけいうんかく から 下した も 乞食こじき 非人ひにん まで 、 あらゆる 身分みぶん の 人間にんげん を 寫しうつし て 來 た から で ござい ます 。 束たば 帶 の いかめしい 殿上人てんじょうびと 《 てんじ やう びと 》 、 五ついつつ 衣ころも 《 ぎぬ 》 の なまめかしい 青あお 女房にょうぼう 、 珠たま 數 を かけ た 念ねん 佛ほとけ 僧そう 、 高こう 足駄あしだ を 穿いはい た 侍さむらい 學まなぶ 生せい 、 細長ほそなが 《 ほそなが 》 を 着き た 女おんな 《 め 》 の 童わらべ 《 わら は 》 、 幣ぬさ 《 み て ぐら 》 を かざし た 陰陽いんよう 師し 《 おん みや うじ 》 ―― 一々いちいち 數 へ 立てたて ゝ 居りおり まし たら 、 とても 際限さいげん は ござい ます まい 。 兎うさぎ に 角かく さ う 云うん ふい ろ / \ の 人間にんげん が 、 火ひ と 煙けむり と が 逆ぎゃく 捲くまく 中なか を 、 牛頭ごず 馬頭めず の 獄卒ごくそつ に 虐 《 さい な 》 まれ て 、 大風おおふう に 吹きふき 散らさちらさ れる 落葉らくよう の やう に 、 紛々ふんぷん と 四方八方しほうはっぽう へ 逃げにげ 迷 つて ゐる の で ござい ます 。 鋼はがね 叉また 《 さす また 》 に 髮 を からま れ て 、 蜘蛛くも より も 手足てあし を 縮めちぢめ て ゐる 女おんな は 、 神かみ 巫みこ 《 かん なぎ 》 の 類るい 《 た ぐひ 》 で ゞ も ござい ませ う か 。 手て 矛ほこ 《 て ほこ 》 に 胸むね を 刺し通ささしとおさ れ て 、 蝙蝠こうもり の やう に 逆ぎゃく に なつ た 男おとこ は 、 生なま 受領じゅりょう 《 なまず り やう 》 か 何なに か に 相違そうい ござい ます まい 。 その 外そと 或はあるいは 鐵てつ 《 くろがね 》 の 笞むち 《 しもと 》 に 打たうた れる もの 、 或はあるいは 千曳ちびき 《 ちび き 》 の 磐石ばんじゃく 《 ばん じ やく 》 に 押さおさ れる もの 、 或はあるいは 怪かい 鳥とり 《 け て う 》 の 嘴くちばし に かけ られる もの 、 或はあるいは 又また 毒どく 龍りゅう の 顎あご 《 あぎと 》 に 噛まかま れる もの 、 ―― 呵責かしゃく も 亦また 罪人ざいにん の 數 に 應 じ て 、 幾いく 通りとおり ある か わかり ませ ん 。
が 、 その 中なか で も 殊にことに 一つひとつ 目立つめだつ て 凄すご じ く 見えるみえる の は 、 まるで 獸 《 け もの 》 の 牙きば の やう な 刀かたな 樹じゅ の 頂きいただき を 半ばなかば かすめ て ( その 刀かたな 樹じゅ の 梢こずえ に も 、 多くおおく の 亡者もうじゃ が ※ 々 と 、 五ご 體 を 貫ぬき 《 つら ぬ 》 かれ て 居りおり まし た が ) 中空なかぞら 《 なか ぞ ら 》 から 落ちおち て 來 る 一いち 輛 の 牛車ぎゅうしゃ で ござい ませ う 。 地獄じごく の 風かぜ に 吹き上げふきあげ られ た 、 その 車くるま の 簾すだれ 《 す だれ 》 の 中なか に は 、 女御にょご 、 更衣こうい に も ま が ふ ばかり 、 綺羅きら びやかに 裝 つた 女房にょうぼう が 、 丈たけ の 黒くろ 髮 を 炎ほのお の 中なか に なびか せ て 、 白いしろい 頸 《 うなじ 》 を 反はん 《 そ 》 ら せ ながら 、 悶えもだえ 苦しんくるしん で 居りおり ます が 、 その 女房にょうぼう の 姿すがた と 申しもうし 、 又また 燃えもえ しき つ て ゐる 牛車ぎゅうしゃ と 申しもうし 、 何なに 一つひとつ として 炎熱えんねつ 地獄じごく の 責苦せめく を 偲ばしのば せ ない もの は ござい ませ ん 。 云うん は ゞ 廣ひろし い 畫 面めん の 恐ろしおそろし さ が 、 この 一いち 人にん の 人物じんぶつ に 輳 《 あ つま 》 つて ゐる と でも 申しもうし ませ う か 。 これ を 見るみる もの ゝ 耳みみ の 底そこ に は 、 自然しぜん と 物凄いものすごい 叫喚きょうかん の 聲 が 傳つとう は つて 來 る か と 疑うたぐ ふ 程ほど 、 入神にゅうしん の 出しゅつ 來 映えはえ で ござい まし た 。
あゝああ 、 これ で ござい ます 、 これ を 描くえがく 爲 め に 、 あの 恐ろしいおそろしい 出しゅつ 來 事ごと が 起つたつ た の で ござい ます 。 又また さもなければ 如何にいかに 良りょう 秀しゅう で も 、 どうして か やう に 生々せいせい 《 いき / \ 》 と 奈落ならく の 苦く 艱 が 畫 かれ ませ う 。 あの 男おとこ は この 屏風びょうぶ の 繪え を 仕上げしあげ た 代りかわり に 、 命いのち さ へ も 捨てるすてる やう な 、 無む 慘 な 目め に 出で 遇ぐう ひ まし た 。 云うん は ゞ この 繪え の 地獄じごく は 、 本朝ほんちょう 第だい 一いち の 繪え 師し 良りょう 秀しゅう が 、 自分じぶん で 何時いつ か 墮 ち て 行くいく 地獄じごく だ つたの で ござい ます 。 … …
私わたし は あの 珍しいめずらしい 地獄じごく 變 の 屏風びょうぶ の 事こと を 申さる 上げあげ ます の を 急いいそい だ あまりに 、 或はあるいは 御ご 話はなし の 順序じゅんじょ を 顛倒てんとう 致しいたし た かも 知れしれ ませ ん 。 が 、 これから 又また 引きひき 續 い て 、 大殿おとど 樣 から 地獄じごく 繪え を 描けえがけ と 申すもうす 仰せおおせ を 受けうけ た 良りょう 秀しゅう の 事こと に 移りうつり ませ う 。
✦ Peek良りょう 秀しゅう は それ から 五ご 六ろく 箇月かげつ の 間ま 、 まるで 御ご 邸やしき へ も 伺はうかがは ない で 、 屏風びょうぶ の 繪え に ばかり か ゝ つて 居りおり まし た 。 あれ 程ほど の 子こ 煩はん 惱 が いざ 繪え を 描くえがく と 云うん ふ 段だん に なり ます と 、 娘むすめ の 顏 を 見るみる 氣 も なくなる と 申すもうす の で は ござい ます から 、 不思議ふしぎ な もの で は ござい ませ ん か 。 先刻せんこく 申し上げもうしあげ まし た 弟子でし の 話はなし で は 、 何なに でも あの 男おとこ は 仕事しごと にとり か ゝ り ます と 、 まるで 狐きつね で も 憑 《 つ 》 い た やう に なる らし う ござい ます 。 いや 實みのる 際さい 當 時じ の 風評ふうひょう に 、 良りょう 秀しゅう が 畫 道どう で 名な を 成しなし た の は 、 福徳ふくとく の 大神おおがみ 《 お ほか み 》 に 祈誓きせい を かけ た から で 、 その 證 據 に は あの 男おとこ が 繪え を 描いえがい て ゐる 所ところ を 、 そつ と 物陰ものかげ 《 ものかげ 》 から 覗いのぞい て 見るみる と 必ずかならず 陰々いんいん として 靈 狐きつね の 姿すがた が 、 一いち 匹ひき なら ず 前後ぜんご 左右さゆう に 、 群ぐん つて ゐる の が 見えるみえる など と 申すもうす 者もの も ござい まし た 。 その 位くらい で ござい ます から 、 いざ 畫 筆ひつ を 取るとる と なる と 、 その 繪え を 描きえがき 上げるあげる と 云うん ふよ り 外そと は 、 何なに も 彼かれ も 忘れわすれ て しまふ の で ござい ませ う 。 晝 も 夜よる も 一間いっけん に 閉 ぢ こも つ た きり で 、 滅多めった に 日の目ひのめ も 見み た 事こと は ござい ませ ん 。 ―― 殊にことに 地獄じごく 變 の 屏風びょうぶ を 描いえがい た 時とき に は 、 かう 云うん ふ 夢中むちゅう に なり 方かた が 、 甚 しか つ た やう で ござい ます 。
と 申しもうし ます の は 何なに も あの 男おとこ が 、 晝 も 蔀しとみ 《 し とみ 》 も 下した 《 お ろ 》 し た 部屋へや の 中なか で 、 結ゆい 燈 臺 《 ゆ ひと う だい 》 の 火ひ の 下した に 、 祕 密みつ の 繪え の 具ぐ を 合せあわせ たり 、 或はあるいは 弟子でし たち を 、 水干すいかん やら 狩衣かりぎぬ やら 、 さま /″\ に 着飾らきかざら せ て 、 その 姿すがた を 、 一いち 人にん づゝ 丁寧ていねい に 寫しうつし たり 、 ―― さ う 云うん ふ 事こと で は ござい ませ ん 。 それ 位い の 變 つた 事ごと なら 、 別にべつに あの 地獄じごく 變 の 屏風びょうぶ を 描 《 か 》 か なく とも 、 仕事しごと に か ゝ つて ゐる 時とき と さ へ 申しもうし ます と 、 何なん 時じ でも やり 兼ねかね ない 男おとこ な の で ござい ます 。 いや 、 現にげんに 龍りゅう 蓋ふた 寺てら の 五ご | 趣おもむき 《 し ゆ 》 生死せいし 《 し や うじ 》 の 圖 を 描きえがき まし た 時とき など は 、 當 り 前まえ の 人間にんげん なら 、 わざと 眼め を 外そと 《 そ 》 ら せ て 行くいく あの 往 來 の 屍骸しがい の 前まえ へ 、 悠々ゆうゆう と 腰こし を 下ろしおろし て 、 半ばなかば 腐れくされ か かつ た 顏 や 手足てあし を 、 髮 の 毛け 一いち す ぢ も 違 へ ず に 、 寫しうつし て 參 つた 事ごと が ござい まし た 。 では 、 その 甚だしいはなはだしい 夢中むちゅう に なり 方かた と は 、 一いち 體 どう 云うん ふ 事こと を 申すもうす の か 、 流石さすが に 御お わかり に なら ない 方ほう も いら つ し やい ませ う 。 それ は 唯今ただいま 詳しいくわしい 事こと は 申し上げもうしあげ て ゐる 暇ひま も ござい ませ ん が 、 主おも な 話はなし を 御ご 耳みみ に 入れいれ ます と 、 大だい 體 先さき か やう な 次第しだい な の で ござい ます 。
良りょう 秀しゅう の 弟子でし の 一いち 人にん が ( これ も やはり 、 前まえ に 申しもうし た 男おとこ で ござい ます が ) 或ある 日ひ 繪え の 具ぐ を 溶いとい て 居りおり ます と 、 急きゅう に 師匠ししょう が 參 り まし て 、
「 己おのれ は 少しすこし 午睡ごすい 《 ひる ね 》 を しよ う と 思ふおもふ 。 が どうも この 頃ころ は 夢見ゆめみ が 惡 い 。 」 と かう 申すもうす の で ござい ます 。 別にべつに これ は 珍しいめずらしい 事こと で も 何なに でも ござい ませ ん から 、 弟子でし は 手て を 休めやすめ ず に 、 唯ただ 、
「 さ やう で ござい ます か 。 」 と 一いち 通りとおり の 挨拶あいさつ を 致しいたし まし た 。 所ところ が 、 良りょう 秀しゅう は 、 何なん 時じ に なく 寂しさびし さ う な 顏 を し て 、
「 就いつい て は 、 己おのれ が 午睡ごすい 《 ひる ね 》 を し て ゐる 間中まなか 、 枕まくら もと に 坐すわ つて ゐ て 貰もらい ひ たい の だ が 。 」 と 、 遠慮えんりょ が まし く 頼むたのむ で は ござい ませ ん か 。 弟子でし は 何なん 時じ に なく 、 師匠ししょう が 夢ゆめ なぞ を 氣 に する の は 、 不思議ふしぎ だ と 思ひおもひ まし た が 、 それ も 別にべつに 造作ぞうさく の ない 事こと で ござい ます から 、
「 よろし う ござい ます 。 」 と 申しもうし ます と 、 師匠ししょう は まだ 心配しんぱい さ う に 、
「 では 直にじかに 奧 へ 來 て くれ 。 尤ももっとも 後であとで 外そと の 弟子でし が 來 て も 、 己おのれ の 睡ねむ つ て ゐる 所ところ へ は 入れいれ ない やう に 。 」 と 、 ため ら ひ ながら 云うん ひ つけ まし た 。 奧 と 申しもうし ます の は 、 あの 男おとこ が 畫 を 描きえがき ます 部屋へや で 、 その 日ひ も 夜よる の やう に 戸と を 立てたて 切き つ た 中なか に 、 ぼんやり と 灯あかり を ともし ながら 、 まだ 燒 筆ひつ 《 やき ふ で 》 で 圖 取りとり だけ しか 出で 來 て ゐ ない 屏風びょうぶ が 、 ぐるり と 立てたて 廻しまわし てあつ たさ う で ござい ます 。 さて こ ゝ へ 參 り ます と 、 良りょう 秀しゅう は 肘ひじ を 枕まくら に し て 、 まるで 疲れつかれ 切き つ た 人間にんげん の やう に 、 す や / \ 、 睡ねむ 入にゅう つて しまひ まし た が 、 もの ゝ 半時はんとき 《 はん とき 》 と たち ませ ん 中なか に 、 枕まくら もと に 居りおり ます 弟子でし の 耳みみ に は 、 何ともなんとも 彼かれ と も 申しもうし やう の ない 、 氣 味み の 惡 い 聲 が はいり 始めはじめ まし た 。
✦ Peekそれ が 始めはじめ は 唯ただ 、 聲 で ご さ い まし た が 、 暫くしばらく し ます と 、 次第にしだいに 切れきれ / ″\ な 語かたり 《 ことば 》 に な つて 、 云うん は ゞ 溺れおぼれ か ゝ つた 人間にんげん が 水みず の 中なか で 呻 《 う な 》 る やう に 、 か やう な 事こと を 申すもうす の で ござい ます 。
「 なに 、 己おのれ 《 おれ 》 に 來 いと 云うん ふ の だ な 。 ―― どこ へ ―― どこ へ 來 いと ? 奈落ならく へ 來 い 。 炎熱えんねつ 地獄じごく へ 來 い 。 ―― 誰だれ だ 。 さ う 云うん ふ 貴き 樣 は 。 ―― 貴き 樣 は 誰だれ だ ―― 誰だれ だ と 思 つ たら 」
弟子でし は 思はおもは ず 繪え の 具ぐ を 溶くとく 手て を やめ て 、 恐るおそれる / \ 師匠ししょう の 顏 を 、 覗くのぞく やう に し て 透しとおし て 見み ます と 、 皺しわ だらけ な 顏 が 白くしろく な つた 上じょう に 大粒おおつぶ 《 お ほ つぶ 》 な 汗あせ を 滲 《 にじ 》 ませ ながら 、 脣 の 干ひ 《 か わ 》 い た 、 齒 の 疎うと 《 まばら 》 な 口くち を 喘 《 あ へ 》 ぐやうに 大きくおおきく 開けあけ て 居りおり ます 。 さ うし て その 口くち の 中なか で 、 何なに か 糸いと で も つけ て 引張ひっぱ つ て ゐる か と 疑うたぐ ふ 程ほど 、 目まぐるしくめまぐるしく 動くうごく もの が ある と 思ひおもひ ます と 、 それ が あの 男おとこ の 舌した だ つた と 申すもうす で は ござい ませ ん か 。 切れ切れきれぎれ な 語かたり は 元もと より 、 その 舌した から 出で て 來 る の で ござい ます 。
「 誰だれ だ と 思 つ たら ―― うん 、 貴き 樣 だ な 。 己おのれ も 貴き 樣 だら う と 思 つて ゐ た 。 なに 、 迎むかい へ に 來 た と ? だから 來 い 。 奈落ならく へ 來 い 。 奈落ならく に は ―― 奈落ならく に は 己おのれ の 娘むすめ が 待つまつ て ゐる 。 」
その 時とき 、 弟子でし の 眼め に は 、 朦朧もうろう と し た 異形いぎょう 《 い ぎやう 》 の 影かげ 《 かげ 》 が 、 屏風びょうぶ の 面めん 《 お もて 》 を かすめ て むらむら と 下りおり て 來 る やう に 見えみえ た 程ほど 、 氣 味み の 惡 い 心もちこころもち が 致しいたし たさ う で ござい ます 。 勿論もちろん 弟子でし は すぐ に 良りょう 秀しゅう に 手て を かけ て 、 力ちから の あら ん 限りかぎり 搖 り 起しおこし まし た が 、 師匠ししょう は 猶なお | 夢現ゆめうつつ 《 ゆめ うつ ゝ 》 に 獨 り 語かたり を 云うん ひつ ゞ け て 、 容易ようい に 眼め の さめる 氣 色しょく は ござい ませ ん 。 そこで 弟子でし は 思ひおもひ 切き つ て 、 側がわ に あつ た 筆洗ひっせん の 水みず を 、 ざぶりとあの 男おとこ の 顏 へ 浴びせかけあびせかけ まし た 。
「 待つまつ て ゐる から 、 この 車くるま へ 乘 つて 來 い ―― この 車くるま へ 乘 つて 、 奈落ならく へ 來 い ―― 」 と 云うん ふ 語ご が それ と 同時にどうじに 、 喉のど を しめ られる やう な 呻きうめき 聲 に 變 つた と 思ひおもひ ます と 、 やつ と 良りょう 秀しゅう は 眼め を 開いひらい て 、 針はり で 刺さささ れ た より も 慌しくあわただしく 、 矢庭やにわ に そこ へ 刎 ね 起きおき まし た が 、 まだ 夢ゆめ の 中なか の 異類いるい 異形いぎょう 《 いる ゐ い ぎやう 》 が 、 ※ 《 まぶた 》 の 後のち を 去らさら ない の で ござい ませ う 。 暫くしばらく は 唯ただ 恐ろしおそろし さ う な 眼め つき を し て 、 やはり 大きくおおきく 口くち を 開きひらき ながら 、 空そら を 見つめみつめ て 居りおり まし た が 、 やがて 我わが に 返かえ つ た 容子ようす で
「 もう 好いよい から 、 あちら へ 行くだり つ て くれ 」 と 、 今度こんど は 如何にもいかにも 素もと 《 そ 》 つ 氣 《 け 》 なく 、 云うん ひ つける の で ござい ます 。 弟子でし は かう 云うん ふ 時とき に 逆ぎゃく ふと 、 何なん 時じ でも 大だい 小言こごと 《 お ほこ ごと 》 を 云うん はれる ので 、 ※ 々 師匠ししょう の 部屋へや から 出で て 參 り まし た が 、 まだ 明いあかい 外そと の 日ひ の 光ひかり を 見み た 時とき に は 、 まるで 自分じぶん が 惡 夢ゆめ から 覺さとる め た 樣 な 、 ほ つ と し た 氣 が 致しいたし た とか 申しもうし て 居りおり まし た 。
しかし これ なぞ は まだ よい 方ほう な ので 、 その後そのご 一月いちがつ ばかり たつ て から 、 今度こんど は 又また 別べつ の 弟子でし が 、 わざわざ 奧 へ 呼ばよば れ ます と 、 良りょう 秀しゅう は やはり うす 暗いくらい 油あぶら 火ひ の 光りひかり の 中なか で 、 繪え 筆ひつ を 噛んかん で 居りおり まし た が 、 いきなり 弟子でし の 方ほう へ 向きむき 直ちょく つて 、
「 御ご 苦く 勞 だ が 、 又また | 裸はだか 《 はだか 》 に な つて 貰もらい は う か 。 」 と 申すもうす の で ござい ます 。 これ は その 時とき まで に も 、 どうか する と 師匠ししょう が 云うん ひ つけ た 事こと で ござい ます から 、 弟子でし は 早速さっそく 衣類いるい を ぬぎすて て 、 赤裸あかはだか 《 あか は だ か 》 に なり ます と 、 あの 男おとこ は 妙みょう に 顏 を しかめ ながら 、
「 わし は 鎖くさり 《 くさり 》 で 縛らしばら れ た 人間にんげん が 見み たい と 思ふおもふ の だ が 、 氣 の 毒どく で も 暫くしばらく の 間ま 、 わし の する 通りとおり に な つて ゐ て は くれ まい か 。 」 と 、 その 癖くせ 少しすこし も 氣 の 毒どく らしい 容子ようす など は 見せみせ ず に 、 冷然れいぜん と かう 申さる し まし た 。 元もと 來 この 弟子でし は 畫 筆ひつ など を 握るにぎる より も 、 太刀たち でも 持つもつ た 方ほう が 好こう ささ う な 、 逞しいたくましい 若者わかもの で ござい まし た が 、 これ に は 流石さすが に 驚いおどろい た と 見えみえ て 、 後々あとあと まで も その 時とき の 話はなし を 致しいたし ます と 、 「 これ は 師匠ししょう が 氣 が 違 つて 、 私わたし を 殺すころす の で は ない か と 思ひおもひ まし た 」 と 繰返しくりかえし て 申しもうし たさ う で ござい ます 。 が 、 良りょう 秀しゅう の 方ほう で は 、 相手あいて の 愚ぐ 圖 々 々 し て ゐる の が 、 燥 《 じれ 》 つ たく な つて 參 つたの で ござい ませ う 。 どこ から 出しだし た か 、 細いほそい 鐵てつ の 鎖くさり を ざら / \ と 手繰たぐ 《 たぐ 》 り ながら 、 殆どほとんど 飛びつくとびつく やう な 勢ぜい ひで 、 弟子でし の 背中せなか へ 乘 り かかり ます と 、 否いな 應 なし に その 儘 兩 腕うで を 捻ひね ぢ あげ て 、 ぐる / \ 卷きまき に 致しいたし て しまひ まし た 。 さ うし て 又また その 鎖くさり の 端はじ を 邪慳じゃけん に ぐいと 引きひき まし た から たまり ませ ん 。 弟子でし の 體 は は づみを 食しょく つて 、 勢ぜい よく 床ゆか 《 ゆか 》 を 鳴らしならし ながら 、 ごろりと そこ へ 横倒しよこだおし に 倒れたおれ て しま つたの で ござい ます 。
✦ Peekその 時とき の 弟子でし の 恰好かっこう は 、 まるで 酒甕さかがめ を 轉 《 ころ 》 が し た やう だ と でも 申しもうし ませ う か 。 何しろなにしろ 手て も 足あし も 慘 たらしく 折り曲げおりまげ られ て 居りおり ます から 、 動くうごく の は 唯ただ 首くび ばかり で ござい ます 。 そこ へ 肥こえ 《 ふと 》 つた 體 中ちゅう 《 からだ ぢ う 》 の 血ち が 、 鎖くさり に 循環じゅんかん 《 めぐり 》 を 止めとめ られ た ので 、 顏 と 云うん はず 胴どう と 云うん はず 、 一いち 面めん に 皮膚ひふ の 色いろ が 赤みあかみ 走はし つて 參 る で は ござい ませ ん か 。 が 、 良りょう 秀しゅう に は それ も 格別かくべつ 氣 に なら ない と 見えみえ まし て 、 その 酒甕さかがめ の やう な 體 の ま はり を 、 あちこち と 廻まわり つて 眺めながめ ながら 、 同じおなじ やう な 寫 眞まこと の 圖 を 何なん 枚まい と なく 描いえがい て 居りおり ます 。 その間そのかん 、 縛らしばら れ て ゐる 弟子でし の 身み が 、 どの 位くらい 苦しにがし かつ たか と 云うん ふ 事こと は 、 何なに も わざ / \ 取立てとりたて ゝ 申し上げるもうしあげる まで も ござい ます まい 。
が 、 もし 何事なにごと も 起らおこら なかつ た と 致しいたし まし たら 、 この 苦しみくるしみ は 恐らくおそらく まだ その 上うえ に も 、 つ ゞ けら れ た 事こと で ござい ませ う 。 幸こう ( と 申しもうし ます より 、 或はあるいは 不幸ふこう に と 申しもうし た 方ほう が よろしい かも 知れしれ ませ ん 。 ) 暫くしばらく 致しいたし ます と 、 部屋へや の 隅すみ に ある 壺つぼ の 蔭かげ から 、 まるで 黒いくろい 油あぶら の やう な もの が 、 一いち す ぢ 細くほそく うねり ながら 、 流れ出しながれだし て 參 り まし た 。 それ が 始はじめ の 中なか は 餘 程ほど 粘りねばり 氣 の ある もの ゝ やう に 、 ゆ つくり 動いうごい て 居りおり まし た が 、 だ ん / \ 滑らかなめらか に 辷りすべり 始めはじめ て 、 やがて ちら / \ 光りひかり ながら 、 鼻はな の 先さき まで 流れ着いながれつい た の を 眺めながめ ます と 、 弟子でし は 思はおもは ず 、 息いき を 引いひい て 、
「 蛇へび が ―― 蛇へび が 。 」 と 喚 《 わ め 》 き まし た 。 その 時とき は 全くまったく 體 中ちゅう の 血ち が 一時いちじ に 凍るこおる か と 思 つた と 申しもうし ます が 、 それ も 無理むり は ござい ませ ん 。 蛇へび は 實みのる 際さい もう少しもうすこし で 、 鎖くさり の 食しょく ひこ ん で ゐる 、 頸 の 肉にく へ その 冷ひや い 舌した の 先さき を 觸 れよ う として ゐ た の で ござい ます 。 この 思ひおもひ も よら ない 出しゅつ 來 事ごと に は 、 いくら 横道よこみち な 良よ 秀でひいで も 、 ぎよつと 致しいたし た の で ござい ませ う 。 慌てあわて て 畫 筆ひつ を 投げ棄てなげすて ながら 、 咄嗟とっさ に 身み を かがめ た と 思ふおもふ と 、 素早くすばやく 蛇へび の 尾お を つかま へ て 、 ぶらりと 逆ぎゃく に 吊りつり 下げさげ まし た 。 蛇へび は 吊りつり 下げさげ られ ながら も 、 頭あたま を 上げあげ て 、 きり / \ と 自分じぶん の 體 へ 卷きまき つき まし た が 、 どうしても あの 男おとこ の 手て の 所ところ まで は とどき ませ ん 。
「 おのれ 故にゆえに 、 あつ たら 一いち | 筆ふで 《 ふ で 》 を 仕つかまつ 損そん 《 し ぞ ん 》 じ た ぞ 。 」
良りょう 秀しゅう は 忌々しいまいまし さ うに かう 呟くつぶやく と 、 蛇へび は その 儘 部屋へや の 隅すみ の 壺つぼ の 中なか へ 抛りほうり こん で 、 それから さも 不承ふしょう 無な 承うけたまわ 《 ふし よう ぶし よう 》 に 、 弟子でし の 體 へ か ゝ つて ゐる 鎖くさり を 解いとい て くれ まし た 。 それ も 唯ただ 解いとい て くれ た と 云うん ふ 丈たけ で 、 肝腎かんじん の 弟子でし の 方ほう へ は 、 優ゆう 《 や さ 》 し い 言葉ことば 一つひとつ かけ て はやり ませ ん 。 大方おおかた 弟子でし が 蛇へび に 噛まかま れる より も 、 寫 眞まこと の 一筆いっぴつ を 誤あやま つたの が 、 業腹ごうはら 《 ご ふ はら 》 だ つたの で ござい ませ う 。 ―― 後であとで 聞ききき ます と 、 この 蛇へび も やはり 姿すがた を 寫すうつす 爲 に わざ / \ あの 男おとこ が 飼 つて ゐ た の ださ う で ござい ます 。
これ だけ の 事こと を 御お 聞ききき に な つたの でも 、 良りょう 秀しゅう の 氣 違 ひじ み た 、 薄うす 氣 味み の 惡 い 夢中むちゅう に なり 方かた が 、 略ほぼ 御お わかり に なつ た 事こと で ござい ませ う 。 所ところ が 最後さいご に 一つひとつ 、 今度こんど は まだ 十じゅう 三さん 四よん の 弟子でし が 、 やはり 地獄じごく 變 の 屏風びょうぶ の 御ご かげ で 、 云うん は ば 命いのち に も 關 《 か ゝ は 》 り 兼けん 《 か 》 ね ない 、 恐ろしいおそろしい 目め に 出で 遇ぐう ひ まし た 。 その 弟子でし は 生れつきうまれつき 色しょく の 白いしろい 女おんな の やう な 男おとこ で ござい まし た が 、 或ある 夜よる の 事こと 、 何なに 氣 なく 師匠ししょう の 部屋へや へ 呼ばよば れ て 參 り ます と 、 良りょう 秀しゅう は 燈 臺 の 火ひ の 下した で 掌てのひら 《 て の ひら 》 に 何やらなにやら 腥いなまぐさい 肉にく を のせ ながら 、 見慣れみなれ ない 一いち 羽わ の 鳥とり を 養よう つて ゐる の で ござい ます 。 大きおおき さ は 先さき 、 世の常よのつね の 猫ねこ ほど も ござい ませ う か 。 さ う 云うん へ ば 、 耳みみ の やう に 兩 方かた へ つき 出で た 羽毛うもう と 云うん ひ 、 琥珀こはく の やう な 色いろ を し た 、 大きなおおきな 圓えん い 眼め 《 まなこ 》 と 云うん ひ 、 見み た 所ところ も 何となくなんとなく 猫ねこ に 似に て 居りおり まし た 。
✦ Peek元もと 來 良りょう 秀しゅう と 云うん ふ 男おとこ は 、 何なに でも 自分じぶん の し て ゐる 事こと に 嘴くちばし を 入れいれ られる の が 大だい 嫌いや ひで 、 先刻せんこく 申し上げもうしあげ た 蛇へび など もさ う で ござい ます が 、 自分じぶん の 部屋へや の 中なか に 何なに が ある か 、 一切いっさい さ う 云うん ふ 事こと は 弟子でし たち に も 知らしら せ た 事こと が ござい ませ ん 。 で ござい ます から 、 或ある 時とき は 机つくえ の 上うえ に 髑髏しゃれこうべ 《 さ れ かう べ 》 が の つて ゐ たり 、 或ある 時とき は 又また 、 銀ぎん 《 しろ が ね 》 の 椀わん や 蒔 繪え の 高坏たかつき 《 たか つき 》 が 並んならん で ゐ たり 、 その 時とき 描いえがい て ゐる 畫 次第しだい で 、 隨 分ぶん 思ひおもひ も よら ない 物もの が 出で て 居りおり まし た 。 が 、 ふだん は か やう な 品しな を 、 一いち 體 どこ に し まつ て 置くおく の か 、 それ は 又また 誰だれ に も わから なかつ た さ う で ござい ます 。 あの 男おとこ が 福徳ふくとく の 大神おおがみ の 冥助みょうじょ を 受けうけ て ゐる など ゝ 申すもうす 噂うわさ も 、 一つひとつ は 確かたしか に さ う 云うん ふ 事こと が 起りおこり に な つて ゐ た の で ござい ませ う 。
そこで 弟子でし は 、 机つくえ の 上うえ の その 異い 樣 な 鳥とり も 、 やはり 地獄じごく 變 の 屏風びょうぶ を 描くえがく の に 入用にゅうよう な のに 違 ひ ない と 、 かう 獨 り 考へかんがへ ながら 、 師匠ししょう の 前まえ へ 畏まかしこま つ て 、 「 何なに か 御用ごよう で ござい ます か 」 と 、 恭きょう 々 しく 申さる し ます と 、 良りょう 秀しゅう は まるで それ が 聞えきこえ ない やう に あの 赤いあかい 脣 へ 舌なめずりしたなめずり を し て 、
「 どう だ 。 よく 馴れなれ て ゐる で は ない か 。 」 と 、 鳥とり の 方ほう へ 頤 を やり ます 。
「 これ は 何となんと 云うん ふも の で ござい ませ う 。 私わたし は ついぞ まだ 、 見み た 事こと が ござい ませ ん が 。 」
弟子でし は かう 申さる し ながら 、 この 耳みみ の ある 、 猫ねこ の やう な 鳥とり を 、 氣 味み 惡 さ うに じろじろ 眺めながめ ます と 、 良りょう 秀しゅう は 不ふ 相あい 變 《 あ ひか はら ず 》 何時いつ も の 嘲笑ちょうしょう 《 あざ わら 》 ふ やう な 調子ちょうし で 、
「 なに 、 見み た 事こと が ない ? 都みやこ 育いく 《 みや こそ だ 》 ちの 人間にんげん は それ だ から 困るこまる 。 これ は 二に 三さん 日にち 前まえ に 鞍馬あんば の 獵 師し が わし に くれ た 耳みみ 木き 兎うさぎ 《 み ゝ づく 》 と 云うん ふ 鳥とり だ 。 唯ただ 、 こんなに 馴れなれ て ゐる の は 、 澤山さわやま ある まい 。 」
かう 云うん ひ ながら あの 男おとこ は 、 徐におもむろに 手て を あげ て 、 丁度ちょうど 餌えさ を 食べたべ て し まつ た 耳みみ 木き 兎うさぎ 《 み ゝ づく 》 の 背中せなか の 毛け を 、 そつ と 下した から 撫でなで 上げあげ まし た 。 すると その 途端とたん で ござい ます 。 鳥とり は 急きゅう に 鋭いするどい 聲 で 、 短くみじかく 一いち 聲 啼いない た と 思ふおもふ と 、 忽ちたちまち 机つくえ の 上うえ から 飛びとび 上じょう つて 、 兩 脚あし の 爪つめ を 張りはり ながら 、 いきなり 弟子でし の 顏 へ と びかゝりました 。 もし その 時とき 、 弟子でし が 袖そで を かざし て 、 慌てあわて ゝ 顏 を 隱 さ なかつ た なら 、 きつ ともう 疵きず の 一つひとつ や 二つふたつ は 負まけ は さ れ て 居りおり まし たら う 。 あ つと 云うん ひ ながら 、 その 袖そで を 振ふ つ て 、 逐 ひ 拂 は う と する 所ところ を 、 耳みみ 木き 兎うさぎ は 蓋ふた に か かつて 、 嘴くちばし を 鳴らしならし ながら 、 又また 一いち 突きつき ―― 弟子でし は 師匠ししょう の 前まえ も 忘れわすれ て 、 立つたつ て は 防ぎふせぎ 、 坐すわ つて は 逐 ひ 、 思はおもは ず 狹 い 部屋へや の 中なか を 、 あちら こちら と 逃げにげ 惑 ひ まし た 。 怪かい 鳥とり 《 け て う 》 も 元もと より それ につれて 、 高くたかく 低くひくく 翔りかけり ながら 、 隙ひま さ へ あれ ば 驀地まっしぐら 《 まつ し ぐら 》 に 眼め を 目がけめがけ て 飛んとん で 來 ます 。 その 度たび に ば さ / \ と 、 凄すご じ く 翼つばさ を 鳴な す の が 、 落葉らくよう の 匂におい だ か 、 瀧たき の 水みず | 沫あわ 《 しぶき 》 と も 或はあるいは 又また 猿さる 酒しゅ の 饐 《 す 》 ゑたいきれだか 何やらなにやら 怪しげあやしげ な もの ゝ け は ひ を 誘 つて 、 氣 味み の 惡 さ と 云うん つ たら ござい ませ ん 。 さ う 云うん へ ば その 弟子でし も 、 うす 暗いくらい 油あぶら 火ひ の 光ひかり さ へ 朧おぼろ げ な 月明げつめい り か と 思はおもは れ て 、 師匠ししょう の 部屋へや が その 儘 遠いとおい 山やま 奧 の 、 妖 氣 に 閉さとざさ れ た 谷たに の やう な 、 心細いこころぼそい 氣 が し た とか 申しもうし たさ う で ござい ます 。
しかし 弟子でし が 恐しこわし かつ た の は 、 何なに も 耳みみ 木き 兎うさぎ に 襲かさね はれる と 云うん ふ 、 その 事こと ばかり で は ござい ませ ん 。 いや 、 それ より も 一層いっそう 身の毛みのけ が よだつ た の は 、 師匠ししょう の 良りょう 秀しゅう が その 騷 ぎを 冷然れいぜん と 眺めながめ ながら 、 徐におもむろに 紙かみ を 展てん べ 筆ふで を 舐ねぶ つ て 、 女おんな の やう な 少年しょうねん が 異形いぎょう な 鳥とり に 虐 《 さい な 》 ま れる 、 物凄いものすごい 有ゆう 樣 を 寫しうつし て ゐ た 事こと で ござい ます 。 弟子でし は 一目ひとめ それ を 見み ます と 、 忽ちたちまち 云うん ひ やう の ない 恐ろしおそろし さ に 脅 《 おび や 》 かさ れ て 、 實みのる 際さい 一いち 時じ は 師匠ししょう の 爲 に 、 殺さころさ れる の で は ない か と さ へ 、 思 つた と 申しもうし て 居りおり まし た 。
✦ Peek實みのる 際さい 師匠ししょう に 殺さころさ れる と 云うん ふ 事こと も 、 全くまったく ない と は 申さもうさ れ ませ ん 。 現にげんに その 晩ばん わざわざ 弟子でし を 呼びよび よせ た ので さ へ 、 實みのる は 木き 兎うさぎ を 唆 《 けし 》 かけ て 、 弟子でし の 逃げにげ ま はる 有ゆう 樣 を 寫さうつさ う と 云うん ふ 魂たましい 膽 らし かつ た の で ござい ます 。 で ござい ます から 、 弟子でし は 、 師匠ししょう の 容子ようす を 一目いちもく 見るみる が 早いはやい か 、 思はおもは ず 兩 袖そで に 頭あたま を 隱 し ながら 、 自分じぶん に も 何となんと 云うん つ た か わから ない やう な 悲鳴ひめい を あげ て 、 その 儘 部屋へや の 隅すみ の 遣戸やりど 《 やり ど 》 の 裾すそ へ 、 居すくまいすくま つ て しまひ まし た 。 とそ の 拍子ひょうし に 、 良りょう 秀しゅう も 何やらなにやら 慌てあわて た やう な 聲 を あげ て 、 立りつ 上じょう つた 氣 色しょく で ござい まし た が 、 忽ちたちまち 木き 兎うさぎ の 羽音はおと が 一層いっそう 前まえ より も はげしく な つて 、 物もの の 倒れるたおれる 音おと や 破れるわれる 音おと が 、 けた ゝ まし く 聞えるきこえる で は ござい ませ ん か 。 これ に は 弟子でし も 二に 度ど 、 度ど を 失しつ つて 、 思はおもは ず 隱 し て ゐ た 頭あたま を 上げあげ て 見み ます と 部屋へや の 中なか は 何時いつ か まつ 暗にあんに な つて ゐ て 、 師匠ししょう の 弟子でし たち を 呼び立てるよびたてる 聲 が 、 その 中なか で 苛 立りつ し さ うに し て 居りおり ます 。
やがて 弟子でし の 一いち 人にん が 、 遠くとおく の 方ほう で 返事へんじ を し て 、 それから 灯あかり を かざし ながら 、 急いいそい で やつ て 參 り まし た が 、 その 煤すす 臭しゅう 《 すゝすす く さ 》 い 明あきら 《 あか 》 り で 眺めながめ ます と 、 結ゆい 燈 臺 《 ゆ ひと う だい 》 が 倒れたおれ た ので 、 床ゆか も 疊 も 一いち 面めん に 油あぶら だらけ に な つた 所しょ へ 、 さつき の 耳みみ 木き 兎うさぎ が 片方かたほう の 翼つばさ ばかり 苦しくるし さ うに は た めかし ながら 、 轉 げ ま はつ て ゐる の で ござい ます 。 良りょう 秀しゅう は 机つくえ の 向うむこう で 半ばなかば 體 を 起しおこし た 儘 、 流石さすが に 呆 氣 《 あ つけ 》 に とら れ た やう な 顏 を し て 、 何やらなにやら 人ひと に は わから ない 事こと を 、 ぶつ / \ 呟いつぶやい て 居りおり まし た 。 ―― それ も 無理むり で は ござい ませ ん 。 あの 木き 兎うさぎ の 體 に は 、 まつ 黒くろ な 蛇へび 《 へび 》 が 一いち 匹ひき 、 頸 から 片方かたほう の 翼つばさ へ かけ て 、 きりきり と 捲きまき つい て ゐる の で ござい ます 。 大方おおかた これ は 弟子でし が 居すくまるいすくまる 拍子ひょうし に 、 そこ に あつ た 壺つぼ を ひ つくり 返しかえし て 、 その 中なか の 蛇へび が 這 ひ 出しだし た の を 、 木き 兎うさぎ が なまじ ひ に 掴みつかみ か ゝ ら う と し た ばかり に 、 とう / \ かう 云うん ふ 大だい 騷 ぎが 始まはじま つたの で ござい ませ う 。 二に 人にん の 弟子でし は 互にかたみに 眼め と 眼め と を 見合せみあわせ て 、 暫くしばらく は 唯ただ 、 この 不思議ふしぎ な 光景こうけい を ぼんやり 眺めながめ て 居りおり まし た が 、 やがて 師匠ししょう に 默 禮 を し て 、 こそ / \ 部屋へや へ 引きひき 下か つ て しまひ まし た 。 蛇へび と 木き 兎うさぎ と が その後そのご どう なつ た か 、 それ は 誰だれ も 知ち つて ゐる もの は ござい ませ ん 。 ――
かう 云うん ふ 類るい 《 た ぐひ 》 の 事こと は 、 その 外そと まだ 、 幾ついくつ と なく ござい まし た 。 前まえ に は 申しもうし 落しおとし まし た が 、 地獄じごく 變 の 屏風びょうぶ を 描けえがけ と 云うん ふ 御ご 沙汰さた が あつ た の は 、 秋あき の 初はつ で ござい ます から 、 それ 以 來 冬ふゆ の 末すえ まで 、 良りょう 秀しゅう の 弟子でし たち は 、 絶えずたえず 師匠ししょう の 怪しげあやしげ な 振舞ふるまい に 脅 《 おび や 》 かさ れ て ゐ た 譯 で ござい ます 。 が 、 その 冬ふゆ の 末すえ に 良りょう 秀しゅう は 何なに か 屏風びょうぶ の 畫 で 、 自由じゆう に なら ない 事こと が 出で 來 た の で ござい ませ う 、 それ まで より は 、 一層いっそう 容子ようす も 陰かげ 氣 に なり 、 物もの 云うん ひも 目め に 見えみえ て 、 荒々しくあらあらしく な つて 參 り まし た 。 と同時にとどうじに 又また 屏風びょうぶ の 畫 も 、 下しも 畫 が 八はち 分ふん 通りどおり 出で 來 上じょう つた 儘 、 更にさらに 捗はかど 《 はか 》 どる 模かたぎ 樣 は ござい ませ ん 。 いや 、 どうか する と 今いま まで に 描いえがい た 所ところ さ へ 、 塗りぬり 消しけし て も しまひ 兼ねかね ない 氣 色しょく な の で ござい ます 。
その 癖くせ 、 屏風びょうぶ の 何なに が 自由じゆう に なら ない の だ か 、 それ は 誰だれ に も わかり ませ ん 。 又また 誰だれ も わから う と し た もの も ござい ます まい 。 前まえ の いろ / \ な 出で 來 事ごと に 懲りこり て ゐる 弟子でし たち は 、 まるで 虎狼ころう と 一つひとつ 檻おり 《 を り 》 に でも ゐる やう な 心もちこころもち で 、 その後そのご 師匠ししょう の 身み の ま はり へ は 、 成るなる 可か く 近づかちかづか ない 算段さんだん を し て 居りおり まし た から 。
✦ Peek從 つて その間そのかん の 事こと に 就いつい て は 、 別にべつに 取り立てとりたて ゝ 申し上げるもうしあげる 程ほど の 御ご 話はなし も ござい ませ ん 。 もし 強つよ ひ て 申さる 上げるあげる と 致しいたし まし たら 、 それ は あの 強情ごうじょう な 老爺ろうや 《 おや ぢ 》 が 、 何故なぜ 《 なぜ 》 か 妙みょう に 涙脆くなみだもろく な つて 、 人ひと の ゐ ない 所ところ で は 時々ときどき 獨 り で 泣いない て ゐ た と 云うん ふ 御ご 話はなし 位い な もの で ござい ませ う 。 殊にことに 或ある 日ひ 、 何なに か の 用よう で 弟子でし の 一いち 人にん が 、 庭先にわさき へ 參 り まし た 時とき なぞ は 廊下ろうか に 立つたつ て ぼんやり 春はる の 近いちかい 空そら を 眺めながめ て ゐる 師匠ししょう の 眼め が 、 涙なみだ で 一いち ぱいになつてゐたさうでございます 。 弟子でし は それ を 見み ます と 、 反はん つて こちら が 恥しいはずかしい やう な 氣 が し た ので 、 默 つて こそ / \ 引き返しひきかえし た と 申すもうす 事こと で ござい ます が 、 五ご | 趣おもむき 《 し ゆ 》 生死せいし 《 し や うじ 》 の 圖 を 描くえがく 爲 に は 、 道ばたみちばた の 死骸しがい さ へ 寫しうつし た と 云うん ふ 、 傲慢ごうまん な あの 男おとこ が 屏風びょうぶ の 畫 が 思ふおもふ やう に 描けえがけ ない 位くらい の 事こと で 、 子供こども らしく 泣きなき 出すだす など と 申すもうす の は 隨 分ぶん 異こと な もの で ござい ませ ん か 。
所ところ が 一方いっぽう 良りょう 秀しゅう が この やう に 、 まるで 正せい 氣 の 人間にんげん と は 思はおもは れ ない 程ほど 夢中むちゅう に なつ て 、 屏風びょうぶ の 繪え を 描いえがい て 居りおり ます 中なか に 、 又また 一方いっぽう で は あの 娘むすめ が 、 何故かなぜか だ ん / \ 氣 鬱 に な つて 、 私わたし ども に さ へ 涙なみだ を 堪へたへ て ゐる 容子ようす が 、 眼め に 立つたつ て 參 り まし た 。 それ が 元もと 來 | 愁 顏 《 うれ ひ が ほ 》 の 、 色いろ の 白いしろい 、 つ ゝ まし や かな女かなじょ だけ に 、 かう なる と 何だかなんだか 睫毛まつげ 《 まつげ 》 が 重くおもく な つて 、 眼め の ま はり に 隈くま が か ゝ つたや う な 、 餘 計けい 寂しいさびしい 氣 が 致すいたす の で ござい ます 。 初はつ は やれ 父ちち 思ひおもひ のせ ゐ だの 、 やれ 戀 煩はん ひ を し て ゐる から だ の 、 いろ / \ 臆測おくそく を 致しいたし た もの で ござい ます が 、 中頃なかごろ から 、 なに あれ は 大殿おとど 樣 が 御意ぎょい に 從 はせよ う として いら つ し やる の だ と 云うん ふ 評判ひょうばん が 立ちたち 始めはじめ て 、 夫おっと から は 誰だれ も 忘れわすれ た 樣 に 、 ぱつたりとあの 娘むすめ の 噂うわさ を し なく な つて 了りょう ひ まし た 。
丁度ちょうど その 頃ころ の 事こと で ござい ませ う 。 或ある 夜よる 、 更さら 《 かう 》 が 闌たけなわ 《 た 》 け て から 、 私わたし が 獨 り 御ご 廊下ろうか を 通りとおり か ゝ り ます と 、 あの 猿さる の 良りょう 秀しゅう が いきなり どこ から か 飛んとん で 參 り まし て 、 私わたし の 袴はかま の 裾すそ を 頻りにしきりに ひつ ぱるのでございます 。 確 、 もう 梅うめ の 匂におい で も 致しいたし さうな うすい 月つき の 光ひかり の さして ゐる 、 暖だん い 夜よる で ござい まし た が 、 其 明りあかり で すかし て 見み ます と 、 猿さる は まつ 白しろ な 齒 を むき出しむきだし ながら 、 鼻はな の 先さき へ 皺しわ を よせ て 、 氣 が 違 は ない ばかり に けた ゝ まし く 啼きなき 立てだて ゝ ゐる で は ござい ませ ん か 。 私わたし は 氣 味み の 惡 い の が 三さん 分ふん と 、 新しいあたらしい 袴はかま を ひつ ぱられる 腹立たしはらだたし さ が 七なな 分ふん と で 、 最初さいしょ は 猿さる を 蹴け 放しはなし て 、 その 儘 通りとおり すぎよ う か と も 思ひおもひ まし た が 、 又また 思ひおもひ 返しかえし て 見み ます と 、 前まえ に この 猿さる を 折檻せっかん し て 、 若殿わかとの 樣 の 御ご 不興ふきょう を 受けうけ た 侍さむらい 《 さ むら ひ 》 の 例れい も ござい ます 。 それに 猿さる の 振舞ふるまい が 、 どうも 唯事ただごと と は 思はおもは れ ませ ん 。 そこで とう / \ 私わたし も 思ひおもひ 切き つ て 、 その ひつ ぱる 方かた へ 五ご 六ろく 間けん 歩くあるく とも なく 歩いあるい て 參 り まし た 。
すると 御ご 廊下ろうか が 一いち 曲りまがり 曲きょく つて 、 夜目よめ に もうす 白いしろい 御池みいけ の 水みず が 枝えだ ぶり の やさしい 松まつ の 向うむこう に ひろ / ″\ と 見渡せるみわたせる 、 丁度ちょうど そこ 迄まで 參 つた 時じ の 事こと で ござい ます 。 どこ か 近くちかく の 部屋へや の 中なか で 人ひと の 爭 つて ゐる らしい け は ひ が 、 慌 《 あわ た ゞ 》 しく 、 又また 妙みょう に ひつ そり と 私わたし の 耳みみ を 脅しおどし まし た 。 あたり は どこ も 森もり 《 しん 》 と 靜しず まり 返かえ つ て 、 月つき 明りあかり とも 靄 と も つか ない もの ゝ 中なか で 、 魚さかな の 跳 る 音おと が する 外そと は 、 話しはなし 聲 一つひとつ 聞えきこえ ませ ん 。 そこ へ この 物音ものおと で ござい ます から 。 私わたし は 思はおもは ず 立たつ 止とめ つて 、 もし 狼おおかみ 籍せき 者しゃ で ゞ も あつ た なら 、 目め に も の 見せみせ て くれよ う と 、 そつ と その 遣戸やりど 《 やり ど 》 の 外そと へ 、 息いき を ひそめ ながら 身み を よせ まし た 。
✦ Peek所ところ が 猿さる は 私わたし の やり方やりかた が まだ る かつ た の で ござい ませ う 。 良りょう 秀しゅう は さも さも もどかし さ うに 、 二に 三さん 度ど 私わたし の 足あし の ま はり を 駈けかけ ま はつ た と 思ひおもひ ます と 、 まるで 咽のんど を 絞めしめ られ た やう な 聲 で 啼きなき ながら 、 いきなり 私わたし の 肩かた の あたり へ 一足ひとあし 飛ひ に 飛びとび 上りのぼり まし た 。 私わたし は 思はおもは ず 頸 を 反らせそらせ て 、 その 爪つめ に かけ られ まい と する 、 猿さる は 又また | 水干すいかん 《 す ゐ かん 》 の 袖そで に かじりつい て 、 私わたし の 體 《 から だ 》 から 辷りすべり 落ちおち まい と する 、 ―― その 拍子ひょうし に 、 私わたし は われ 知らずしらず 二に 足そく 三さん 足そく よろめい て 、 その 遣りやり 戸と へ 後こう ざま に 、 し た ゝ か 私わたし の 體 を 打ちつけうちつけ まし た 。 かう な つて は もう 一刻いっこく も 躊躇ちゅうちょ し て ゐる 場合ばあい で は ござい ませ ん 。 私わたし は 矢庭やにわ に 遣りやり 戸と を 開け放しあけはなし て 、 月つき 明りあかり の とどか ない 奧 の 方ほう へ 跳 りこ まう と 致しいたし まし た 。 が 、 その 時とき 私わたし の 眼め を 遮さえぎ つ た もの は ―― いや 、 それ より も もつ と 私わたし は 、 同時にどうじに その 部屋へや の 中なか から 、 彈 かれ た やう に 駈けかけ 出さださ う と し た 女おんな の 方ほう に 驚かさおどろかさ れ まし た 。 女おんな は 出合頭であいがしら に 危くきく 私わたし に 衝きつき 當 ら う として 、 その 儘 外がい へ 轉 び 出で まし た が 、 何故なぜ 《 なぜ 》 か そこ へ 膝ひざ を つい て 、 息いき を 切らしきらし ながら 私わたし の 顏 を 、 何なに か 恐ろしいおそろしい もの でも 見るみる やう に 、 戰 《 をの ゝ 》 き / \ 見上げみあげ て ゐる の で ござい ます 。
それ が 良りょう 秀しゅう の 娘むすめ だ つ た こと は 、 何なに も わざ / \ 申し上げるもうしあげる まで も ござい ます まい 。 が 、 その 晩ばん の あの 女おんな は 、 まるで 人間にんげん が 違 つ た やう に 、 生々せいせい 《 いき / \ 》 と 私わたし の 眼め に 映りうつり まし た 。 眼め は 大きくおおきく か ゞ やい て 居りおり ます 。 頬ほお も 赤くあかく 燃えもえ て 居りおり まし たら う 。 そこ へ しどけなく 亂 れ た 袴はかま や 袿うちぎ 《 う ちぎ 》 が 、 何時もいつも の 幼おさな さ と は 打つうつ て 變 つた 艷つや 《 なまめか 》 し さ さ へ も 添 へ て を り ます 。 これ が 實みのる 際さい あの 弱々しいよわよわしい 、 何事なにごと に も 控ひかえ へ 目め 勝しょう な 良りょう 秀しゅう の 娘むすめ で ござい ませ う か 。 ―― 私わたし は 遣りやり 戸と に 身み を 支 へ て 、 この 月つき 明りあかり の 中なか に ゐる 美しいうつくしい 娘むすめ の 姿すがた を 眺めながめ ながら 、 慌しくあわただしく 遠のいとおのい て 行くいく もう 一いち 人にん の 足音あしおと を 、 指さささ せる もの ゝ やう に 指さしゆびさし て 、 誰だれ です と 靜しず に 眼め で 尋ねたずね まし た 。
すると 娘むすめ は 脣 を 噛みかみ ながら 、 默 つて 首くび を ふり まし た 。 その 容子ようす が 如何にもいかにも 亦また | 口くち 惜 《 く や 》 し さうな の で ござい ます 。
そこで 私わたし は 身み を か ゞ め ながら 、 娘むすめ の 耳みみ へ 口くち を つける やう に し て 、 今度こんど は 「 誰だれ です 」 と 小しょう 聲 で 尋ねたずね まし た 。 が 、 娘むすめ は やはり 首くび を 振ふ つ た ばかり で 、 何ともなんとも 返事へんじ を 致しいたし ませ ん 。 いや 、 それ と 同時にどうじに 長いながい 睫毛まつげ 《 まつげ 》 の 先さき へ 、 涙なみだ を 一ぱいいっぱい ため ながら 、 前まえ より も 緊 く 脣 を 噛みしめかみしめ て ゐる の で ござい ます 。
性せい 得とく 《 し や とく 》 愚ぐ 《 おろか 》 な 私わたし に は 、 分りわかり すぎ て ゐる 程ほど 分つわかつ て ゐる 事こと の 外そと は 、 生憎あいにく 何一つなにひとつ 呑みこめのみこめ ませ ん 。 で ござい ます から 、 私わたし は 言げん の かけ やう も 知らしら ない で 、 暫くしばらく は 唯ただ 、 娘むすめ の 胸むね の 動悸どうき に 耳みみ を 澄ますま せる やう な 心もちこころもち で 、 ぢ つと そこ に 立ちすくんたちすくん で 居りおり まし た 。 尤ももっとも これ は 一つひとつ に は 、 何故なぜ 《 なぜ 》 か この 上うえ 問とい ひ 訊 《 た ゞ 》 す の が 惡 いや う な 、 氣 咎めとがめ が 致しいたし た から でも ござい ます 。 ――
それ が どの 位くらい 續 い た か 、 わかり ませ ん 。 が 、 やがて 明け放しあけはなし た 遣りやり 戸と を 閉しとざし ながら 少しすこし は 上うえ 氣 の 褪めさめ た らしい 娘むすめ の 方ほう を 見返みかえ つ て 、 「 もう 曹司ぞうし 《 そう じ 》 へ 御ご 歸 り なさい 」 と 出で 來 る 丈たけ やさしく 申しもうし まし た 。 さ うし て 私わたし も 自分じぶん ながら 、 何なに か 見み て は なら ない もの を 見み た やう な 、 不安ふあん な 心もちこころもち に 脅さおどさ れ て 、 誰だれ に と も なく 恥しいはずかしい 思ひおもひ を し ながら 、 そつ と 元もと 來 た 方ほう へ 歩きあるき 出しだし まし た 。 所ところ が 十じゅう 歩ほ と 歩かあるか ない 中なか に 、 誰だれ か 又また 私わたし の 袴はかま の 裾すそ を 、 後ご から 恐るおそれる / \ 、 引き止めるひきとめる で は ござい ませ ん か 。 私わたし は 驚いおどろい て 、 振り向きふりむき まし た 。 あなた 方かた は それ が 何なに だ つた と 思召おぼしめし し ます ?
見るみる と それ は 私わたし の 足もとあしもと に あの 猿さる の 良りょう 秀しゅう が 、 人間にんげん の やう に 兩 手しゅ を つい て 、 黄金おうごん の 鈴すず を 鳴な し ながら 、 何なん 度ど と なく 丁寧ていねい に 頭あたま を 下げさげ て ゐる の で ござい まし た 。
✦ Peekすると その 晩ばん の 出しゅつ 來 事ごと が あ つて から 、 半月はんつき ばかり 後ご の 事こと で ござい ます 。 或ある 日ひ 良りょう 秀しゅう は 突然とつぜん 御ご 邸やしき へ 參 り まし て 、 大殿おとど 樣 へ 直じか 《 ぢ き 》 の 御ご 眼め 通りどおり を 願ねがい ひ まし た 。 卑しいいやしい 身分みぶん の もの で ござい ます が 、 日頃ひごろ から 格別かくべつ 御意ぎょい に 入にゅう つて ゐ た から で ござい ませ う 。 誰だれ に でも 容易ようい に 御ご 會 ひ に なつ た 事こと の ない 大殿おとど 樣 が 、 その 日ひ も 快くこころよく 御ご 承知しょうち に な つて 、 早速さっそく 御前ごぜん 近くちかく へ 御召おめし し に なり まし た 。 あの 男おとこ は 例れい の 通りとおり 、 香こう 染めぞめ の 狩衣かりぎぬ に 萎 《 な 》 え た 烏帽子えぼし を 頂いいただい て 、 何時もいつも より は 一層いっそう 氣 むづかしさうな 顏 を し ながら 、 恭しくうやうやしく 御前ごぜん へ 平伏へいふく 致しいたし まし た が 、 やがて 嗄れしゃがれ た 聲 で 申しもうし ます に は
「 兼ねかね /″\ 御ご 云うん ひ つけ に なり まし た 地獄じごく 變 の 屏風びょうぶ で ござい ます が 、 私わたし も 日夜にちや に 丹誠たんせい を 抽んでぬきんで て 、 筆ふで を 執りとり まし た 甲斐かい が 見えみえ まし て 、 もはや あらまし は 出で 來 上じょう つたの も 同前どうぜん で ござい ます る 。 」
「 それ は 目出度いめでたい 。 予 も 滿みつる 足あし ぢ や 。 」
しかし かう 仰おっしゃ 有ゆう 《 お つ し や 》 る 大殿おとど 樣 の 御ご 聲 に は 、 何故なぜ 《 なぜ 》 か 妙みょう に 力ちから の 無いない 、 張ちょう 合ごう の ぬけ た 所ところ が ござい まし た 。
「 いえ 、 それ が 一向いっこう 目出度くめでたく はご ざり ませ ぬ 。 」 良りょう 秀しゅう は 、 稍 腹はら 立りつ しさ う な 容子ようす で ぢ つと 眼め を 伏せふせ ながら 、 「 あらまし は 出で 來 上りのぼり まし た が 、 唯ただ 一つひとつ 、 今こん 以 て 私わたし に は 描けえがけ ぬ 所ところ が ござい ます る 。 」
「 なに 、 描けえがけ ぬ 所ところ が ある ? 」
「 さ やう で ござい ます る 。 私わたし は 總さとし じ て 、 見み た もの で なけれ ば 描 《 か 》 け ませ ぬ 。 よし 描けえがけ て も 、 得心とくしん が 參 り ませ ぬ 。 それでは 描けえがけ ぬ も 同じおなじ 事こと で ござい ませ ぬ か 。 」
これ を 御お 聞ききき に なる と 、 大殿おとど 樣 の 御ご 顏 に は 、 嘲るあざける やう な 御ご 微笑びしょう が 浮びうかび まし た 。
「 では 地獄じごく 變 の 屏風びょうぶ を 描かえがか う と すれ ば 、 地獄じごく を 見み なけれ ば なる まい な 。 」
「 さ やう で ご ざり まする 。 が 、 私わたし は 先年せんねん 大だい 火事かじ が ござい まし た 時とき に 、 炎熱えんねつ 地獄じごく の 猛火もうか 《 ま うく わ 》 に も ま が ふ 火の手ひのて を 、 眼め の あたり に 眺めながめ まし た 。 「 よ ぢ り 不動ふどう 」 の 火焔かえん を 描きえがき まし た の も 、 實みのる は あの 火事かじ に 遇ぐう つた から で ござい ます る 。 御前ごぜん も あの 繪え は 御ご 承知しょうち で ござい ませ う 。 」
「 しかし 罪人ざいにん は どう ぢ や 。 獄卒ごくそつ は 見み た 事こと が ある まい な 。 」 大殿おとど 樣 は まるで 良りょう 秀しゅう の 申すもうす 事こと が 御ご 耳みみ に はいら なかつ た やう な 御ご 容子ようす で 、 かう 疊 みかけ て 御お 尋ねたずね に なり まし た 。
「 私わたし は 鐵てつ 《 くろがね 》 の 鎖くさり 《 くさり 》 に 縛ばく 《 いましめ 》 られ た もの を 見み た 事こと が ござい ます る 。 怪かい 鳥とり に 惱 まさ れる もの ゝ 姿すがた も 、 具ぐ 《 つぶ さ 》 に 寫しうつし とり まし た 。 され ば 罪人ざいにん の 呵責かしゃく に 苦しむくるしむ 樣 も 知らしら ぬ と 申さもうさ れ ませ ぬ 。 又また 獄卒ごくそつ は ―― 」 と 云うん つて 、 良りょう 秀しゅう は 氣 味み の 惡 い 苦笑くしょう を 洩も し ながら 、 「 又また 獄卒ごくそつ は 、 夢現ゆめうつつ 《 ゆめ うつ ゝ 》 に 何なん 度ど と なく 、 私わたし の 眼め に 映りうつり まし た 。 或はあるいは 牛頭ごず 《 ご づ 》 、 或はあるいは 馬頭めず 《 め づ 》 、 或はあるいは 三面六臂さんめんろっぴ の 鬼おに の 形かたち が 、 音おと の せ ぬ 手て を 拍はく き 、 聲 の 出で ぬ 口くち を 開いひらい て 、 私わたし を 虐 み に 參 り ます の は 、 殆どほとんど 毎日まいにち 毎夜まいよ の こと と 申しもうし て も よろし う ござい ませ う 。 ―― 私わたし の 描かえがか う として 描けえがけ ぬ の は 、 その やう な もの で は ござい ませ ぬ 。 」
それ に は 大殿おとど 樣 も 、 流石さすが に 御ご 驚きおどろき に な つた で ござい ませ う 。 暫くしばらく は 唯ただ | 苛 立りつ 《 い ら だ 》 たし さ うに 、 良りょう 秀しゅう の 顏 を 睨めねめ て 御ご 出しゅつ に なり まし た が 、 やがて 眉まゆ を 險 しく 御お 動かしうごかし に なり ながら 、
「 では 何なに が 描 《 か 》 け ぬ と 申すもうす の ぢ や 。 」 と 打だ 捨 る やう に 仰おっしゃ 有ゆう い まし た 。
✦ Peek「 私わたし は 屏風びょうぶ の 唯ただ 中ちゅう に 、 檳榔びろう 毛け 《 びら う げ 》 の 車くるま が 一いち 輛 空そら から 落ちおち て 來 る 所ところ を 描かえがか う と 思 つて 居りおり まする 。 」 良りょう 秀しゅう は かう 云うん つて 、 始めてはじめて 鋭くするどく 大殿おとど 樣 の 御ご 顏 を 眺めながめ まし た 。 あの 男おとこ は 畫 の 事こと を 云うん ふと 、 氣 違 ひ 同どう 樣 に なる と は 聞いきい て 居りおり まし た が 、 その 時とき の 眼め の くばり に は 確 に さ やう な 恐ろしおそろし さ が あつ た やう で ござい ます 。
「 その 車くるま の 中なか に は 、 一いち 人にん の あでやか な 上うえ ※ が 、 猛火もうか の 中なか に 黒くろ 髮 を 亂 し ながら 、 悶えもだえ 苦しんくるしん で ゐる の で ござい ます る 。 顏 は 煙けむり に 咽びむせび ながら 、 眉まゆ を 顰ひそみ 《 ひそ 》 め て 、 空そら ざま に 車くるま 蓋ふた 《 やかた 》 を 仰いあおい で 居りおり ませ う 。 手て は 下しも 簾すだれ 《 し た す だれ 》 を 引きちぎひきちぎ つ て 、 降りふり か ゝ る 火の粉ひのこ の 雨あめ を 防がふせが う として ゐる かも 知れしれ ませ ぬ 。 さ うし て その ま はり に は 、 怪しげあやしげ な 鷙 鳥とり が 十じゅう 羽わ と なく 、 二に 十じゅう 羽わ と なく 、 嘴くちばし を 鳴らしならし て 紛々ふんぷん と 飛びとび 繞にょう つて ゐる の で ござい ます る 。 ―― あゝああ 、 それ が 、 牛車ぎゅうしゃ の 中なか の 上うえ ※ が 、 どうしても 私わたし に は 描 《 か 》 け ませ ぬ 。 」
「 さ うし て ―― どう ぢ や 。 」
大殿おとど 樣 は どう 云うん ふ 譯 か 、 妙みょう に 悦ばしよろこばし さ う な 御ご 氣 色しょく で 、 かう 良りょう 秀しゅう を 御お 促しうながし に なり まし た 。 が 、 良りょう 秀しゅう は 例れい の 赤いあかい 脣 を 熱ねつ で も 出で た 時とき の やう に 震しん は せ ながら 、 夢ゆめ を 見み て ゐる の か と 思ふおもふ 調子ちょうし で 、
「 それ が 私わたし に は 描けえがけ ませ ぬ 。 」 と 、 もう一度もういちど 繰返しくりかえし まし た が 、 突然とつぜん 噛みつくかみつく やう な 勢ぜい ひ に な つて 、
「 どうか 檳榔びろう 毛け 《 びら う げ 》 の 車くるま を 一いち 輛 、 私わたし の 見み て ゐる 前まえ で 、 火ひ を かけ て 頂きいただき た う ござい ます る 。 さ うし て もし 出で 來 まする なら ば ―― 」
大殿おとど 樣 は 御ご 顏 を 暗くくらく なす つた と 思ふおもふ と 、 突然とつぜん けたたましく 御ご 笑えみ ひ に なり まし た 。 さ うし て その 御ご 笑えみ ひ 聲 に 息いき を つまら せ ながら 、 仰おっしゃ 有ゆう い ます に は 、
「 お ゝ 、 萬よろず 事ごと その 方ほう が 申すもうす 通りとおり に 致しいたし て 遣や は さ う 。 出で 來 る 出しゅつ 來 ぬ の 詮議せんぎ は 無益むえき 《 むや く 》 の 沙汰さた ぢ や 。 」
私わたし は その 御言みこと を 伺ひうかがひ ます と 、 蟲 の 知らせしらせ か 、 何となくなんとなく 凄すご じい 氣 が 致しいたし まし た 。 實みのる 際さい 又また 大殿おとど 樣 の 御ご 容子ようす も 、 御ご 口くち の 端はじ に は 白くしろく 泡あわ が たま つて 居りおり ます し 、 御ご 眉まゆ の あたり に は びく / \ と 電でん 《 い な づま 》 が 走はし つて 居りおり ます し 、 まるで 良りょう 秀しゅう の もの 狂きょう ひ に 御ご 染みしみ なす つたの か と 思ふおもふ 程ほど 、 唯ただ なら なかつ た の で ござい ます 。 それ が ちよい と 言げん を 御ご 切りきり に なる と 、 すぐ 又また 何なに か が 爆 《 は 》 ぜ た やう な 勢ぜい ひで 、 止めとめ 度ど なく 喉のど を 鳴らしならし て 御ご 笑えみ ひ に なり ながら 、
「 檳榔びろう 毛け 《 びら う げ 》 の 車くるま に も 火ひ を かけよ う 。 又また その 中なか に は あでやか な 女おんな を 一いち 人にん 、 上うえ ※ の 裝 《 よそ ほ ひ 》 を さ せ て 乘 せ て 遣や は さ う 。 炎ほのお と 黒くろ 煙けむり と に 攻めせめ られ て 、 車くるま の 中なか の 女おんな が 、 悶えもだえ 死し を する ―― それ を 描かえがか う と 思ひおもひ つい た の は 、 流石さすが に 天下てんか 第だい 一いち の 繪え 師し ぢ や 。 褒めほめ て とら す 。 お ゝ 、 褒めほめ て とら す ぞ 。 」
大殿おとど 樣 の 御ご 言葉ことば を 聞ききき ます と 、 良りょう 秀しゅう は 急きゅう に 色いろ を 失しつ つて 喘 《 あ へ 》 ぐやうに 唯ただ 、 脣 ばかり 動どう し て 居りおり まし た が 、 やがて 體 中ちゅう の 筋すじ が 緩んゆるん だ やう に 、 べたりと 疊 へ 兩 手しゅ を つく と 、
「 難なん 有ゆう い 仕合しあい で ござい ます る 。 」 と 、 聞えるきこえる か 聞えきこえ ない か わから ない 程ほど 低いひくい 聲 で 、 丁寧ていねい に 御ご 禮 を 申し上げもうしあげ まし た 。 これ は 大方おおかた 自分じぶん の 考へかんがへ て ゐ た 目め ろ みの 恐ろしおそろし さ が 、 大殿おとど 樣 の 御ご 言葉ことば に つれ て あり / \ と 目め の 前まえ へ 浮んうかん で 來 た から で ござい ませ う か 。 私わたし は 一生いっしょう の 中なか に 唯ただ 一いち 度ど 、 この 時とき だけ は 良りょう 秀しゅう が 、 氣 の 毒どく な 人間にんげん に 思はおもは れ まし た 。
✦ Peekそれから 二に 三さん 日にち し た 夜よる の 事こと で ござい ます 。 大殿おとど 樣 は 御ご 約束やくそく 通りどおり 、 良りょう 秀しゅう を 御召おめし し に な つて 、 檳榔びろう 毛け 《 びら う げ 》 の 車くるま の 燒 ける 所ところ を 、 目め 近くちかく 見せみせ て 御お やり に なり まし た 。 尤ももっとも これ は 堀河ほりかわ の 御ご 邸やしき で あつ た 事こと で は ござい ませ ん 。 俗ぞく に 雪ゆき 解かい 《 ゆき げ 》 の 御所ごしょ と 云うん ふ 、 昔むかし 大殿おとど 樣 の 姉あね 君くん が いら し つた 洛外らくがい の 山やま 莊 で 、 御ご 燒 き に な つたの で ござい ます 。
この 雪ゆき 解かい の 御所ごしょ と 申しもうし ます の は 、 久しくひさしく どなた に も 御ご 住じゅう ひ に は なら なかつ た 所ところ で 、 廣ひろし い 御ご 庭にわ も 荒れあれ 放題ほうだい 荒れ果てあれはて て 居りおり まし た が 、 大方おおかた この 人ひと 氣 の ない 御ご 容子ようす を 拜 見み し た 者もの の 當 推量すいりょう で ござい ませ う 。 こ ゝ で 御ご 歿 《 お な 》 く なり に なつ た 妹いもうと 君くん の 御身おんみ の 上うえ に も 、 兎角とかく の 噂うわさ が 立ちたち まし て 、 中なか に は 又また 月つき の ない 夜毎よごと 々 々 に 、 今いま でも 怪しいあやしい 御ご 袴はかま の 緋ひ の 色いろ が 、 地ち に も つか ず 御ご 廊下ろうか を 歩むあゆむ など と 云うん ふ 取沙汰とりざた を 致すいたす もの も ござい まし た 。 ―― それ も 無理むり で は ござい ませ ん 。 晝 で さ へ 寂しいさびしい この 御所ごしょ は 、 一いち 度ど 日び が 暮れくれ た と なり ます と 、 遣りやり 水すい の 音おと が 一際ひときわ 陰かげ に 響いひびい て 、 星明りほしあかり に 飛ぶとぶ 五位鷺ごいさぎ も 、 怪かい 形がた 《 け ぎやう 》 の 物もの か と 思ふおもふ 程ほど 、 氣 味み が 惡 い の で ござい ます から 。
丁度ちょうど その 夜よる は やはり 月つき の ない 、 まつ 暗くら な 晩ばん で ござい まし た が 、 大殿おとど 油ゆ 《 お ほ と の あぶら 》 の 灯影ほかげ で 眺めながめ ます と 、 縁えん に 近くちかく 座ざ を 御お 占めしめ に なつ た 大殿おとど 樣 は 、 淺 黄き の 直衣なおし 《 なほ し 》 に 濃いこい 紫むらさき の 浮 紋もん の 指貫ゆびぬき 《 さ し ぬ き 》 を 御召おめし し に な つて 、 白地しろじ の 錦にしき の 縁えん を とつ た 圓えん 座ざ 《 わら ふた 》 に 、 高々たかだか と あぐら を 組んくん で いら つ し やい まし た 。 その 前後ぜんご 左右さゆう に 御ご 側がわ の 者もの ども が 五ご 六ろく 人にん 、 恭しくうやうやしく 居並んいならん で 居りおり まし た の は 、 別にべつに 取り立てとりたて て 申し上げるもうしあげる まで も ござい ます まい 。 が 、 中なか に 一いち 人にん 、 眼め だ つて 事ごと あり げ に 見えみえ た の は 、 先年せんねん | 陸りく 奧 《 みちのく 》 の 戰 ひ に 餓 ゑて 人じん の 肉にく を 食しょく つて 以 來 、 鹿しか の 生なま 角かく 《 いき づの 》 さ へ 裂くさく やう に なつ た と 云うん ふ 強力きょうりょく の 侍さむらい が 、 下した に 腹はら 卷 を 着こつこ ん だ 容子ようす で 、 太刀たち を 鴎かもめ 尻しり 《 かも めじ り 》 に 佩 《 は 》 き 反はん 《 そ 》 ら せ ながら 、 御ご 縁えん の 下した に 嚴 《 いか め 》 しく つくば つて ゐ た 事こと で ござい ます 。 ―― それ が 皆みな 、 夜よる 風ふう に 靡くなびく 灯あかり の 光ひかり で 、 或はあるいは 明るくあかるく 或はあるいは 暗くくらく 、 殆どほとんど 夢現ゆめうつつ 《 ゆめ うつ ゝ 》 を 分たわかた ない 氣 色しょく で 、 何故かなぜか もの凄くものすごく 見えみえ 渡わたし つて 居りおり まし た 。
その 上うえ に 又また 、 御ご 庭にわ に 引きひき 据 ゑた 檳榔びろう 毛け の 車くるま が 、 高いたかい 車くるま 蓋ふた 《 やかた 》 に の つ しり と 暗くら を 抑そもそも へ て 、 牛うし は つけ ず 黒いくろい 轅ながえ 《 なが え 》 を 斜はす に 榻 《 し ぢ 》 へ かけ ながら 、 金物かなもの 《 かな も の 》 の 黄金おうごん 《 きん 》 を 星ほし の やう に 、 ちらちら 光らせひからせ て ゐる の を 眺めながめ ます と 、 春はる と は 云うん ふも の ゝ 何となくなんとなく 肌寒いはださむい 氣 が 致しいたし ます 。 尤ももっとも その 車くるま の 内うち は 、 浮 線せん 綾あや の 縁えん 《 ふち 》 を とつ た 青いあおい 簾すだれ が 、 重くおもく 封じこめふうじこめ て 居りおり ます から 、 ※ 《 はこ 》 に は 何なに が は い つ て ゐる か 判りわかり ませ ん 。 さ うし て その ま はり に は 仕丁してい たち が 、 手て ん 手て に 燃えさかるもえさかる 松明たいまつ 《 まつ 》 を 執と つ て 、 煙けむり が 御ご 縁えん の 方ほう へ 靡くなびく の を 氣 に し ながら 、 仔細しさい らしく 控ひかえ へ て 居りおり ます 。
當 の 良りょう 秀しゅう は 稍 離れはなれ て 、 丁度ちょうど 御ご 縁えん の 眞まこと 向むこう に 、 跪いひざまずい て 居りおり まし た が 、 これ は 何時もいつも の 香こう 染めぞめ らしい 狩衣かりぎぬ に 萎えなえ た 揉 烏帽子えぼし 《 もみ ゑぼし 》 を 頂いいただい て 、 星空ほしぞら の 重みおもみ に 壓 さ れ た か と 思ふおもふ 位くらい 、 何時もいつも より は 猶なお 小さくちいさく 、 見み す ぼら し げに 見えみえ まし た 。 その後そのご に 又また 一いち 人にん 同じおなじ やう な 烏帽子えぼし 狩衣かりぎぬ の 蹲つくばい つたの は 、 多分たぶん 召しめし 連れつれ た 弟子でし の 一いち 人にん で でも ござい ませ う か 。 それ が 丁度ちょうど 二に 人にん とも 、 遠いとおい うす 暗がりくらがり の 中なか に 蹲つくばい つて 居りおり ます ので 、 私わたし の ゐ た 御ご 縁えん の 下した から は 、 狩衣かりぎぬ の 色いろ さ へ 定かさだか に は わかり ませ ん 。
✦ Peek時刻じこく は 彼是あれこれ | 眞まこと 夜中やちゅう 《 ま よ なか 》 に も 近ちか かつ た で ござい ませ う 。 林泉りんせん を つ ゝ ん だ 暗くら が ひつ そり と 聲 を 呑んのん で 、 一同いちどう の する 息いき を 窺 つて ゐる と 思ふおもふ 中なか に は 、 唯ただ かすか な 夜よる 風ふう の 渡るわたる 音おと が し て 、 松明たいまつ の 煙けむり が その 度たび に 煤すす 臭いくさい 匂におい を 送おく つて 參 り ます 。 大殿おとど 樣 は 暫くしばらく 默 つて 、 この 不思議ふしぎ な 景色けしき を ぢ つと 眺めながめ て いら つ し やい まし た が 、 やがて 膝ひざ を 御お 進めすすめ に なり ます と 、
「 良りょう 秀しゅう 、 」 と 、 鋭くするどく 御お 呼びかけよびかけ に なり まし た 。
良りょう 秀しゅう は 何やらなにやら 御返事おへんじ を 致しいたし た やう で ござい ます が 、 私わたし の 耳みみ に は 唯ただ 、 唸るうなる やう な 聲 しか 聞えきこえ て 參 り ませ ん 。
「 良りょう 秀しゅう 。 今宵こよい は その 方ほう の 望みのぞみ 通りどおり 、 車くるま に 火ひ を かけ て 見せみせ て 遣や は さ う 。 」
大殿おとど 樣 は かう 仰おっしゃ 有ゆう つて 、 御ご 側がわ の 者もの たち の 方ほう を 流ながれ 《 な が 》 し 眄 《 め 》 に 御ご 覽 に なり まし た 。 その 時とき 何なに か 大殿おとど 樣 と 御ご 側がわ の 誰彼だれかれ と の 間ま に は 、 意味いみ あり げ な 微笑びしょう が 交さかわさ れ た やう に も 見み うけ まし た が 、 これ は 或はあるいは 私わたし の 氣 のせ ゐ かも 分りわかり ませ ん 。 すると 良りょう 秀しゅう は 畏かしこ る 畏かしこ る 頭あたま を 擧げあげ て 御ご 縁えん の 上うえ を 仰いあおい だら し う ござい ます が 、 やはり 何なに も 申し上げもうしあげ ず に 控ひかえ へ て 居りおり ます 。
「 よう 見み い 。 それ は 予 が 日頃ひごろ 乘 る 車くるま ぢ や 。 その 方ほう も 覺さとる え が あらう 。 ―― 予 は その 車くるま に これから 火ひ を かけ て 、 目のあたりまのあたり に 炎熱えんねつ 地獄じごく を 現ぜげんぜ させる 心算しんさん 《 つもり 》 ぢ や が 。 」
大殿おとど 樣 は 又また 言げん を 御ご 止めとめ に な つて 、 御ご 側がわ の 者もの たち に ※ 《 めく ば 》 せ を 《 めく ば 》 せ を 」 は 底本ていほん で は 「 ※ 《 めく ば 》 せ を 」 ] なさい まし た 。 それから 急きゅう に 苦々しいにがにがしい 御ご 調子ちょうし で 、 「 その 内うち に は 罪人ざいにん の 女房にょうぼう が 一いち 人にん 、 縛めいましめ た 儘 、 乘 せ て ある 。 され ば 車くるま に 火ひ を かけ たら 、 必定ひつじょう その 女おんな め は 肉にく を 燒 き 骨ほね を 焦あせ し て 、 四苦八苦しくはっく の 最期さいご を 遂げるとげる で あら う 。 その 方ほう が 屏風びょうぶ を 仕上げるしあげる に は 、 又また と ない よい 手本てほん ぢ や 。 雪ゆき の やう な 肌はだ が 燃えもえ 爛れるただれる の を 見のがすみのがす な 。 黒くろ 髮 が 火の粉ひのこ に な つて 、 舞まい ひ 上るのぼる さま も よう 見み て 置けおけ 。 」
大殿おとど 樣 は 三さん 度ど 口ぐち を 御ご 噤 《 お つぐ 》 み に なり まし た が 、 何なに を 御お 思ひおもひ に なつ た の か 、 今度こんど は 唯ただ 肩かた を 搖 つて 、 聲 も 立てたて ず に 御ご 笑えみ ひな さり ながら 、
「 末代まつだい まで も ない 觀 物ぶつ ぢ や 。 予 も ここ で 見物けんぶつ しよ う 。 それ / \ 、 簾すだれ 《 みす 》 を 揚げあげ て 、 良りょう 秀しゅう に 中なか の 女おんな を 見せみせ て 遣や さ ぬ か 。 」
仰おっしゃ を 聞くきく と 仕丁してい の 一いち 人にん は 、 片手かたて に 松明たいまつ の 火ひ を 高くたかく かざし ながら 、 つか / \ と 車くるま に 近づくちかづく と 、 矢庭やにわ に 片手かたて を さし 伸ばしのばし て 、 簾すだれ を さらり と 揚げあげ て 見せみせ まし た 。 けた ゝ まし く 音おと を 立てたて て 燃えるもえる 松明たいまつ 《 まつ 》 の 光ひかり は 、 一しきりひとしきり 赤くあかく ゆらぎ ながら 、 忽ちたちまち 狹 い ※ 《 はこ 》 の 中なか を 鮮 か に 照あきら し 出しだし まし た が 、 ※ 《 とこ 》 の 上うえ に 慘 《 むご た 》 らしく 、 鎖くさり に かけ られ た 女房にょうぼう は ―― あゝああ 、 誰だれ か 見み 違 へ を 致しいたし ませ う 。 きらびやか な 繍 の ある 櫻さくら の 唐衣からころも に すべら かし の 黒くろ 髮 が 艷やかつややか に 垂れたれ て 、 うち かたむい た 黄金おうごん の 釵 子こ 《 さ つ し 》 も 美しくうつくしく 輝いかがやい て 見えみえ まし た が 、 身なりみなり こそ 違 へ 、 小しょう 造りつくり な 體 つき は 、 色いろ の 白いしろい 頸 の あたり は 、 さ うし て あの 寂しいさびしい 位くらい つ ゝ まし や か な 横よこ 顏 は 、 良りょう 秀しゅう の 娘むすめ に 相違そうい ござい ませ ん 。 私わたし は 危くきく 叫びさけび 聲 を 立てよたてよ う と 致しいたし まし た 。
その 時とき で ござい ます 。 私わたし と 向こう ひ あ つて ゐ た 侍さむらい は 慌しくあわただしく 身み を 起しおこし て 、 柄頭つかがしら 《 つ か が しら 》 を 片手かたて に 抑そもそも へ ながら 、 屹 と 良りょう 秀しゅう の 方ほう を 睨みにらみ まし た 。 それ に 驚いおどろい て 眺めながめ ます と 、 あの 男おとこ は この 景色けしき に 、 半ばなかば 正せい 氣 を 失しつ つたの で ござい ませ う 。 今いま まで 下した に 蹲つくばい 《 う づく ま 》 つて ゐ た の が 、 急きゅう に 飛び立つとびたつ た と 思ひおもひ ます と 、 兩 手しゅ を 前まえ へ 伸しのばし た 儘 、 車くるま の 方ほう へ 思はおもは ず 知らしら ず 走りはしり か ゝ ら う と 致しいたし まし た 。 唯ただ 生憎あいにく 前まえ に も 申しもうし まし た 通りとおり 、 遠いとおい 影かげ の 中なか に 居りおり ます ので 、 顏 貌 《 か ほか たち 》 は はつ きり と 分りわかり ませ ん 。 しかし さ う 思 つたの は ほんの 一いち 瞬間しゅんかん で 、 色いろ を 失しつ つた 良りょう 秀しゅう の 顏 は いや 、 まるで 何なに か 目め に 見えみえ ない 力ちから が 、 宙ちゅう へ 吊り上げつりあげ た やう な 良りょう 秀しゅう の 姿すがた は 、 忽ちたちまち うす 暗がりくらがり を 切りきり 拔 い て あり / \ と 眼前がんぜん へ 浮び上りうかびあがり まし た 。 娘むすめ を 乘 せ た 檳榔びろう 毛け の 車くるま が 、 この 時とき 、 「 火ひ を かけ い 」 と 云うん ふ 大殿おとど 樣 の 御言みこと と共にとともに 、 仕丁してい たち が 投げるなげる 松明たいまつ の 火ひ を 浴びあび て 炎々えんえん と 燃えもえ 上うえ つたの で ござい ます 。
✦ Peek火ひ は 見るみる / \ 中なか に 、 車くるま 蓋ふた 《 やかた 》 を つ ゝ み まし た 。 庇ひさし に つい た 紫むらさき の 流りゅう 蘇そ 《 ふさ 》 が 、 煽らあふら れ た やう に さ つ と 靡くなびく と 、 その 下した から 濛々もうもう と 夜目よめ に も 白いしろい 煙けむり が 渦うず を 卷いまい て 、 或はあるいは 簾すだれ 《 す だれ 》 、 或はあるいは 袖そで 、 或はあるいは 棟むね の 金物かなもの 《 かな も の 》 が 、 一時いちじ に 碎けくだけ て 飛んとん だ か と 思ふおもふ 程ほど 、 火の粉ひのこ が 雨あめ の やう に 舞まい ひ 上るのぼる ―― その 凄すご じ さ と 云うん つ たら ござい ませ ん 。 いや 、 それ より も めらめら と 舌した を 吐いはい て 袖そで 格子こうし 《 そで が うし 》 に 搦 み ながら 、 半はん 空そら 《 なか ぞ ら 》 まで も 立ちたち 昇るのぼる 烈々れつれつ と し た 炎ほのお の 色いろ は まるで 日輪にちりん が 地ち に 落ちおち て 、 天火てんか が 迸ほとばし つ た やう だ と でも 申しもうし ませ う か 。 前まえ に 危くきく 叫ばさけば う と し た 私わたし も 、 今いま は 全くまったく 魂たましい 《 たま し ひ 》 を 消しけし て 、 唯ただ 茫然ぼうぜん と 口くち を 開きひらき ながら 、 この 恐ろしいおそろしい 光景こうけい を 見守るみまもる より 外そと は ござい ませ ん でし た 。 しかし 親おや の 良りょう 秀しゅう は ――
良りょう 秀しゅう の その 時とき の 顏 つき は 、 今いま でも 私わたし は 忘れわすれ ませ ん 。 思はおもは ず 知らしら ず 車くるま の 方ほう へ 驅 け 寄らよら う と し た あの 男おとこ は 、 火ひ が 燃えもえ 上るのぼる と 同時にどうじに 、 足あし を 止めとめ て 、 やはり 手て を さし 伸しのばし た 儘 、 食しょく ひ 入るはいる ばかり の 眼め つき を し て 、 車くるま を つ ゝ む 焔ほのお 煙けむり を 吸 ひ つけ られ た やう に 眺めながめ て 居りおり まし た が 、 滿みつる 身み に 浴びあび た 火ひ の 光ひかり で 、 皺しわ だらけ な 醜いみにくい 顏 は 、 髭ひげ の 先さき まで も よく 見えみえ ます 。 が 、 その 大きくおおきく 見開いみひらい た 眼め の 中なか と 云うん ひ 、 引きひき 歪めゆがめ た 脣 の あたり と 云うん ひ 、 或はあるいは 又また 絶えずたえず 引き攣ひきつ つ て ゐる 頬ほお の 肉にく の 震しん へ と 云うん ひ 、 良りょう 秀しゅう の 心こころ に 交 々 《 こ も /″\》 往 來 する 恐れおそれ と 悲しみかなしみ と 驚きおどろき と は 、 歴々れきれき と 顏 に 描かえがか れ まし た 。 首くび を 刎 ねら れる 前まえ の 盜 人じん で も 、 乃至ないし は 十王じゅうおう の 廳 へ 引き出さひきださ れ た 、 十じゅう 逆ぎゃく 五ご 惡 の 罪人ざいにん でも あゝああ まで 苦しくるし さ う な 顏 は 致しいたし ます まい 。 これ に は 流石さすが に あの 強力きょうりょく 《 が うり き 》 の 侍さむらい で さ へ 、 思はおもは ず 色いろ を 變 へ て 、 畏かしこ る / \ 大殿おとど 樣 の 御ご 顏 を 仰ぎあおぎ まし た 。
が 、 大殿おとど 樣 は 緊 く 唇くちびる を 御お 噛みかみ に なり ながら 、 時々ときどき 氣 味み 惡 く 御ご 笑えみ ひ に な つて 、 眼め を 放さはなさ ず ぢ つと 車くるま の 方ほう を 御お 見つめみつめ に な つて いら つ し やい ます 。 さ うし て その 車くるま の 中なか に は ―― あゝああ 、 私わたし は その 時とき 、 その 車くるま に どんな 娘むすめ の 姿すがた を 眺めながめ た か 、 それ を 詳しくくわしく 申し上げるもうしあげる 勇いさむ 氣 は 、 到底とうてい あらう と も 思はおもは れ ませ ん 。 あの 煙けむり に 咽んむせん で 仰おっしゃ 向むかい 《 あ ふむ 》 けた 顏 の 白しろ さ 、 焔ほのお を 掃 《 はら 》 つて ふり 亂 れ た 髮 の 長なが さ 、 それから 又また 見るみる 間ま に 火ひ と 變 つ て 行くいく 、 櫻さくら の 唐衣からころも の 美しうつくし さ 、 ―― 何となんと 云うん ふ 慘 《 むご 》 たらしい 景色けしき で ござい まし たら う 。 殊にことに 夜よる 風ふう が 一いち 下か 《 ひと お ろ 》 し し て 、 煙けむり が 向うむこう へ 靡いなびい た 時とき 、 赤いあかい 上うえ に 金粉きんぷん を 撒いまい た やう な 、 焔ほのお の 中なか から 浮きうき 上じょう つて 、 髮 を 口くち に 噛みかみ ながら 、 縛ばく 《 いましめ 》 の 鎖くさり も 切れるきれる ばかり 身悶えみもだえ を し た 有ゆう 樣 は 、 地獄じごく の 業苦ごうく を 目のあたりまのあたり へ 寫しうつし 出しだし た か と 疑うたぐ はれ て 、 私わたし 始めはじめ 強力きょうりょく の 侍さむらい まで おの づと 身の毛みのけ が よだち まし た 。
すると その 夜よる 風ふう が 又また 一いち 渡りわたり 、 御ご 庭にわ の 木々きぎ の 梢こずえ に さ つと 通つう ふ ―― と 誰だれ でも 、 思ひおもひ まし たら う 。 さ う 云うん ふ 音おと が 暗いくらい 空そら を 、 どこ と も 知らしら ず 走はし つ た と 思ふおもふ と 、 忽ちたちまち 何なに か 黒いくろい もの が 、 地ち に も つか ず 宙ちゅう に も 飛ばとば ず 、 鞠まり の やう に 躍りおどり ながら 、 御所ごしょ の 屋根やね から 火ひ の 燃えさかるもえさかる 車くるま の 中なか へ 、 一文字ひともじ に とびこみ まし た 。 さ うし て 朱しゅ 塗ぬり の やう な 袖そで 格子こうし が 、 ばら / \ と 燒 け 落ちるおちる 中なか に 、 のけ反のけぞ 《 そ 》 つた 娘むすめ の 肩かた を 抱いだい て 、 帛 を 裂くさく やう な 鋭いするどい 聲 を 、 何ともなんとも 云うん へ ず 苦しくるし さ うに 、 長くながく 煙けむり の 外そと へ 飛ばとば せ まし た 。 續 い て 又また 、 二に 聲 三さん 聲 ―― 私わたし たち は 我わが 知らしら ず 、 あ つと 同音どうおん に 叫びさけび まし た 。 壁代かべしろ 《 か べ しろ 》 の やう な 焔ほのお を 後ご に し て 、 娘むすめ の 肩かた に 縋すが つ て ゐる の は 、 堀河ほりかわ の 御ご 邸やしき に 繋いつない で あ つた 、 あの 良よ 秀しゅう と 諢 名めい の ある 、 猿さる だ つたの で ござい ます から 。 その 猿さる が 何なに 處 を どうして この 御所ごしょ まで 、 忍んしのん で 來 た か 、 それ は 勿論もちろん 誰だれ に も わかり ませ ん 。 が 、 日頃ひごろ 可愛かわい が つて くれ た 娘むすめ なれ ば こそ 、 猿さる も 一いち しよ に 火ひ の 中なか へ は ひつ た の で ござい ませ う 。
✦ Peekが 、 猿さる の 姿すがた が 見えみえ た の は 、 ほんの 一いち 瞬間しゅんかん で ござい まし た 。 金きむ 梨子なしご 地ち 《 きん なし ぢ 》 の やう な 火の粉ひのこ が 一しきりひとしきり 、 ぱつと 空そら へ 上うえ つた か と 思ふおもふ 中なか に 、 猿さる は 元もと より 娘むすめ の 姿すがた も 、 黒くろ 煙けむり の 底そこ に 隱 さ れ て 、 御ご 庭にわ の まん中まんなか に は 唯ただ 、 一いち 輛 の 火の車ひのくるま が 凄すご じい 音おん を 立てたて ながら 、 燃 《 も 》 え 沸にえ 《 たぎ 》 つて ゐる ばかり で ござい ます 。 いや 、 火の車ひのくるま と 云うん ふ より も 、 或はあるいは 火ひ の 柱はしら と 云うん つた 方かた が 、 あの 星空ほしぞら を 衝いつい て ※ え 返るかえる 、 恐ろしいおそろしい 火焔かえん の 有ゆう 樣 に は ふさ は しい かも 知れしれ ませ ん 。
その 火ひ の 柱はしら を 前まえ に し て 、 凝り固まこりかたま つ た やう に 立つたつ て ゐる 良りょう 秀しゅう は 、 ―― 何となんと 云うん ふ 不思議ふしぎ な 事こと で ござい ませ う 。 あの さつき まで 地獄じごく の 責苦せめく に 惱 ん で ゐ た やう な 良りょう 秀しゅう は 、 今いま は 云うん ひ やう の ない 輝きかがやき を 、 さながら 恍惚こうこつ と し た 法悦ほうえつ の 輝きかがやき を 、 皺しわ だらけ な 滿みつる 面めん に 浮べうかべ ながら 、 大殿おとど 樣 の 御前ごぜん も 忘れわすれ た の か 、 兩 腕うで を し つかり 胸むね に 組んくん で 、 佇んたたずん で ゐる で は ござい ませ ん か 。 それ が どうも あの 男おとこ の 眼め の 中なか に は 、 娘むすめ の 悶えもだえ 死ぬしぬ 有ゆう 樣 が 映うつ つ て ゐ ない やう な の で ござい ます 。 唯ただ 美しいうつくしい 火焔かえん の 色いろ と 、 その 中なか に 苦しむくるしむ 女人にょにん の 姿すがた と が 、 限りかぎり なく 心こころ を 悦ばよろこば せる ―― さ う 云うん ふ 景色けしき に 見えみえ まし た 。
しかも 不思議ふしぎ な の は 、 何なに も あの 男おとこ が 一人娘ひとりむすめ 《 ひとり むす め 》 の 斷 末まつ 魔ま を 嬉しうれし さ うに 眺めながめ て ゐ た 、 それ ばかり で は ござい ませ ん 。 その 時とき の 良りょう 秀しゅう に は 、 何故なぜ 《 なぜ 》 か 人間にんげん と は 思はおもは れ ない 夢ゆめ に 見るみる 獅子王ししおう の 怒りいかり に 似に た 、 怪しげあやしげ な 嚴 《 おごそか 》 さ が ござい まし た 。 で ござい ます から 不意ふい の 火の手ひのて に 驚いおどろい て 、 啼きなき 騷 ぎながら 飛ひ びまはる 數 の 知れしれ ない 夜鳥やちょう で さ へ 、 氣 のせ ゐ か 良りょう 秀しゅう の 揉 烏帽子えぼし の ま はり へ は 、 近づかちかづか なかつ た やう で ござい ます 。 恐らくはおそらくは 無心むしん の 鳥とり の 眼め に も 、 あの 男おとこ の 頭あたま の 上うえ に 、 圓えん 光こう の 如くごとく 懸かか つ て ゐる 、 不可思議ふかしぎ な 威い 嚴 が 見えみえ た の で ござい ませ う 。
鳥とり で さ へ さ う で ござい ます 。 まして 私わたし たち は 仕丁してい まで も 、 皆かい 息いき を ひそめ ながら 、 身み の 内うち も 震ふ へる ばかり 、 異い 樣 な 隨 喜き の 心こころ に 充ちみち 滿みつる ち て 、 まるで 開眼かいがん の 佛ほとけ でも 見るみる やう に 、 眼め も 離さはなさ ず 、 良りょう 秀しゅう を 見つめみつめ まし た 。 空そら 一いち 面めん に 鳴り渡るなりわたる 車くるま の 火ひ と それ に 魂たましい を 奪だつ はれ て 、 立ちすくんたちすくん で ゐる 良りょう 秀しゅう と ―― 何となんと 云うん ふ 莊 嚴 、 何となんと 云うん ふ 歡 喜き で ござい ませ う 。 が 、 その 中なか で たつ た 、 御ご 縁えん の 上うえ の 大殿おとど 樣 だけ は 、 まるで 別人べつじん か と 思はおもは れる 程ほど 、 御ご 顏 の 色いろ も 青ざめあおざめ て 、 口元くちもと に 泡あわ を 御ご ため に なり ながら 、 紫むらさき の 指貫ゆびぬき 《 さ し ぬ き 》 の 膝ひざ を 兩 手しゅ に し つかり 御ご つかみ に な つて 、 丁度ちょうど 喉のど の 渇いかわい た 獸 の やう に 喘ぎあえぎ つ ゞ け て いら つ し やい まし た 。 … …
✦ Peekその 夜よる 雪ゆき 解かい の 御所ごしょ で 、 大殿おとど 樣 が 車くるま を 御ご 燒 き に なつ た 事こと は 、 誰だれ の 口くち から とも なく 世上せじょう へ 洩れもれ まし た が 、 それ に 就いつい て は 隨 分ぶん いろ / \ な 批判ひはん を 致すいたす もの も 居い つ た やう で ござい ます 。 先さき 第だい 一いち に 何故なぜ 《 なぜ 》 大殿おとど 樣 が 良りょう 秀しゅう の 娘むすめ を 御ご 燒 き 殺しころし なす つ た か 、 ―― これ は 、 かな は ぬ 戀 の 恨みうらみ から なす つたの だ と 云うん ふ 噂うわさ が 、 一番いちばん 多うおおう ござい まし た 。 が 、 大殿おとど 樣 の 思召おぼしめし し は 、 全くまったく 車くるま を 燒 き 人じん を 殺しころし て まで も 、 屏風びょうぶ の 畫 を 描かえがか う と する 繪え 師し 根性こんじょう の 曲きょく 《 よこしま 》 な の を 懲らすこらす 御ご 心算しんさん 《 おつもり 》 だ つたの に 相違そうい ござい ませ ん 。 現にげんに 私わたし は 、 大殿おとど 樣 が 御ご 口くち づか ら さ う 仰おっしゃ 有るある の を 伺 つた 事ごと さ へ ござい ます 。
それから あの 良よ 秀しゅう が 、 目前もくぜん で 娘むすめ を 燒 き 殺さころさ れ ながら 、 それでも 屏風びょうぶ の 畫 を 描きえがき たい と 云うん ふそ の 木石ぼくせき の やう な 心もちこころもち が 、 やはり 何かとなにかと あげつら はれ た やう で ござい ます 。 中なか に は あの 男おとこ を 罵ののし つ て 、 畫 の 爲 に は 親子おやこ の 情愛じょうあい も 忘れわすれ て しまふ 、 人面じんめん 獸 心しん の 曲者くせもの だ など と 申すもうす もの も ござい まし た 。 あの 横川よこかわ 《 よ が は 》 の 僧都そうず 樣 など は 、 かう 云うん ふ 考こう へ に 味方みかた を なす つた 御ご 一いち 人にん で 、 「 如何いかが に 一いち 藝げい 一能いちのう に 秀でひいで やう とも 、 人ひと として 五常ごじょう を 辨 へ ね ば 、 地獄じごく に 墮 ちる 外そと は ない 」 など と 、 よく 仰おっしゃ 有ゆう つた もの で ござい ます 。
所ところ が その後そのご 一月いちがつ ばかり 經 《 た 》 つて 、 愈々いよいよ 地獄じごく 變 の 屏風びょうぶ が 出で 來 上りのぼり ます と 良よ 秀しゅう は 早速さっそく それ を 御ご 邸やしき へ 持つもつ て 出で て 、 恭しくうやうやしく 大殿おとど 樣 の 御ご 覽 に 供とも へ まし た 。 丁度ちょうど その 時とき は 僧都そうず 樣 も 御ご 居合いあい は せ に なり まし た が 、 屏風びょうぶ の 畫 を 一目いちもく 御ご 覽 に なり ます と 、 流石さすが に あの 一いち 帖じょう の 天地てんち に 吹き荒んふきすさん で ゐる 火ひ の 嵐あらし の 恐しこわし さ に 御ご 驚きおどろき なす つたの で ござい ませ う 。 それ まで は 苦いにがい 顏 を なさ り ながら 、 良りょう 秀しゅう の 方ほう を じ ろ / \ 睨めねめ つけ て い らし つたの が 、 思はおもは ず 知らしら ず 膝ひざ を 打つうつ て 、 「 出で かし 居い つ た 」 と 仰おっしゃ 有ゆう 《 お つ し や 》 い まし た 。 この 言げん を 御ご 聞 に な つて 、 大殿おとど 樣 が 苦笑くしょう なす つた 時じ の 御ご 容子ようす も 、 未だにいまだに 私わたし は 忘れわすれ ませ ん 。
それ 以 來 あの 男おとこ を 惡 く 云うん ふも の は 、 少くすくなく とも 御ご 邸やしき の 中なか だけ で は 、 殆どほとんど 一いち 人にん も ゐ なく なり まし た 。 誰だれ でも あの 屏風びょうぶ を 見るみる もの は 、 如何いかが に 日頃ひごろ 良りょう 秀しゅう を 憎くにくく 思 つて ゐる に せよ 、 不思議ふしぎ に 嚴 《 おご そ 》 か な 心もちこころもち に 打たうた れ て 、 炎熱えんねつ 地獄じごく の 大だい 苦く 艱 を 如 實みのる に 感じるかんじる から でも ござい ませ う か 。
しかし さうな つた 時分じぶん に は 、 良りょう 秀しゅう は もう この世このよ に 無いない 人ひと の 數 に は い つ て 居りおり まし た 。 それ も 屏風びょうぶ の 出しゅつ 來 上じょう つた 次じ の 夜よる に 、 自分じぶん の 部屋へや の 梁やな 《 はり 》 へ 繩 を かけ て 、 縊 《 く び 》 れ 死んしん だ の で ござい ます 。 一人娘ひとりむすめ 《 ひとり むす め 》 を 先立てさきだて た あの 男おとこ は 、 恐らくおそらく 安閑あんかん として 生きいき ながら へる の に 堪へたへ なかつ た の で ござい ませ う 。 屍骸しがい は 今いま でも あの 男おとこ の 家いえ の 跡あと に 埋まうずま つて 居りおり ます 。 尤ももっとも 小さなちいさな 標しるべ 《 しるし 》 の 石いし は 、 その後そのご 何なん 十じゅう 年ねん か の 雨風あめかぜ 《 あめ かぜ 》 に 曝 《 さら 》 さ れ て 、 とう の 昔むかし 誰だれ の 墓はか と も 知れしれ ない やう に 、 苔こけ 蒸 《 こ けむ 》 し て ゐる に ち が ひ ござい ませ ん 。
✦ Peek