桜さくら の 花はな が 咲くさく と 人々ひとびと は 酒さけ を ぶらさげ たり 団子だんご 《 だ ん ご 》 を たべ て 花はな の 下した を 歩いあるい て 絶景ぜっけい だの 春はる ランマン だ の と 浮かれうかれ て 陽気ようき に なり ます が 、 これ は 嘘うそ です 。 なぜ 嘘うそ か と 申しもうし ます と 、 桜さくら の 花はな の 下した へ 人ひと が より 集っつどっ て 酔っ払っよっぱらっ て ゲロ を 吐いはい て 喧嘩けんか 《 けんか 》 し て 、 これ は 江戸えど 時代じだい から の 話はなし で 、 大昔おおむかし は 桜さくら の 花はな の 下した は 怖しこわし いと 思っおもっ て も 、 絶景ぜっけい だ など と は 誰だれ も 思いおもい ませ ん でし た 。 近頃ちかごろ は 桜さくら の 花はな の 下もと と いえ ば 人間にんげん が より 集っつどっ て 酒さけ を のん で 喧嘩けんか し て い ます から 陽気ようき で にぎやか だ と 思いこんおもいこん で い ます が 、 桜さくら の 花はな の 下した から 人間にんげん を 取り去るとりさる と 怖こわ ろ しい 景色けしき に なり ます ので 、 能のう に も 、 さる 母親ははおや が 愛児あいじ を 人さらいひとさらい に さらわ れ て 子供こども を 探しさがし て 発狂はっきょう し て 桜さくら の 花はな の 満開まんかい の 林はやし の 下した へ 来き かかり 見渡すみわたす 花びらはなびら の 陰かげ に 子供こども の 幻まぼろし を 描いえがい て 狂いくるい 死し し て 花びらはなびら に 埋まっうまっ て しまう ( この ところ 小生しょうせい の 蛇足だそく 《 だ そく 》 ) という 話はなし も あり 、 桜さくら の 林はやし の 花はな の 下した に 人ひと の 姿すがた が なけれ ば 怖しこわし い ばかり です 。
昔むかし 、 鈴鹿峠すずかとうげ に も 旅人たびびと が 桜さくら の 森もり の 花はな の 下した を 通らとおら なけれ ば なら ない よう な 道みち に なっ て い まし た 。 花はな の 咲かさか ない 頃ころ は よろしい の です が 、 花はな の 季節きせつ に なる と 、 旅人たびびと は みんな 森もり の 花はな の 下した で 気き が 変へん に なり まし た 。 できるだけ 早くはやく 花はな の 下した から 逃げよにげよ う と 思っおもっ て 、 青いあおい 木き や 枯れ木かれき の ある 方ほう へ 一目散いちもくさん に 走りはしり だし た もの です 。 一いち 人にん だ と まだ よい ので 、 なぜ か と いう と 、 花はな の 下した を 一目散いちもくさん に 逃げにげ て 、 あたりまえ の 木の下このした へ くる と ホッほっ と し て ヤレヤレやれやれ と 思っおもっ て 、 すむ から です が 、 二に 人にん 連れん は 都合つごう が 悪いわるい 。 なぜなら 人間にんげん の 足あし の 早はや さ は 各人かくじん 各様かくよう で 、 一いち 人にん が 遅れおくれ ます から 、 オイ 待っまっ て くれ 、 後ご から 必死ひっし に 叫んさけん で も 、 みんな 気違いきちがい で 、 友達ともだち を すて て 走りはしり ます 。 それで 鈴鹿峠すずかとうげ の 桜さくら の 森もり の 花はな の 下した を 通過つうか し た とたん に 今いま 迄まで 仲なか の よかっ た 旅人たびびと が 仲なか が 悪くわるく なり 、 相手あいて の 友情ゆうじょう を 信用しんよう し なく なり ます 。 そんな こと から 旅人たびびと も 自然しぜん に 桜さくら の 森もり の 下した を 通らとおら ない で 、 わざわざ 遠とお まわり の 別べつ の 山道さんどう を 歩くあるく よう に なり 、 やがて 桜さくら の 森もり は 街道かいどう を 外そと 《 はず 》 れ て 人ひと の 子こ 一いち 人にん 通らとおら ない 山やま の 静寂せいじゃく へ とり 残さのこさ れ て しまい まし た 。
そう なっ て 何なん 年ねん か あと に 、 この 山やま に 一いち 人にん の 山賊さんぞく が 住みすみ はじめ まし た が 、 この 山賊さんぞく は ずいぶん むごたらしい 男おとこ で 、 街道かいどう へ で て 情じょう 容赦ようしゃ なく 着物きもの を はぎ 人じん の 命いのち も 断ちたち まし た が 、 こんな 男おとこ で も 桜さくら の 森もり の 花はな の 下した へ くる と やっぱり 怖しこわし く なっ て 気き が 変へん に なり まし た 。 そこで 山賊さんぞく は それ 以来いらい 花はな が きらい で 、 花はな という もの は 怖しこわし い もの だ な 、 なんだか 厭いや な もの だ 、 そういう 風かぜ に 腹の中はらのうち で は 呟 《 つぶ や 》 い て い まし た 。 花はな の 下した で は 風かぜ が ない のに ゴウゴウ 風ふう が 鳴っなっ て いる よう な 気き が し まし た 。 その くせ 風ふう が ちっとも なく 、 一つひとつ も 物音ものおと が あり ませ ん 。 自分じぶん の 姿すがた と 跫音きょうおん 《 あし おと 》 ばかり で 、 それ が ひっそり 冷めさめ たい そして 動かうごか ない 風かぜ の 中なか に つつま れ て い まし た 。 花びらはなびら が ぽ そ ぽ そ 散るちる よう に 魂たましい が 散っちっ て い のち が だんだん 衰えおとろえ て 行くいく よう に 思わおもわ れ ます 。 それで 目め を つぶっ て 何なに か 叫んさけん で 逃げにげ たく なり ます が 、 目め を つぶる と 桜さくら の 木き に ぶつかる ので 目め を つぶる わけ に も 行きいき ませ ん から 、 一いち そう 気違いきちがい に なる の でし た 。
けれども 山賊さんぞく は 落 付いつい た 男おとこ で 、 後悔こうかい という こと を 知らしら ない 男おとこ です から 、 これ は おかしい と 考えかんがえ た の です 。 ひとつ 、 来年らいねん 、 考えかんがえ て やろ う 。 そう 思いおもい まし た 。 今年ことし は 考えるかんがえる 気き が し なかっ た の です 。 そして 、 来年らいねん 、 花はな が さい たら 、 その とき じっくり 考えよかんがえよ う と 思いおもい まし た 。 毎年まいとし そう 考えかんがえ て 、 もう 十じゅう 何なん 年ねん も たち 、 今年ことし も 亦また 《 また 》 、 来年らいねん に なっ たら 考えかんがえ て やろ う と 思っおもっ て 、 又また 、 年とし が 暮れくれ て しまい まし た 。
そう 考えかんがえ て いる うち に 、 始めはじめ は 一いち 人にん だっ た 女房にょうぼう が もう 七なな 人にん に も なり 、 八はち 人にん 目め の 女房にょうぼう を 又また 街道かいどう から 女おんな の 亭主ていしゅ の 着物きもの と 一緒いっしょ に さらっ て き まし た 。 女おんな の 亭主ていしゅ は 殺しころし て き まし た 。
山賊さんぞく は 女おんな の 亭主ていしゅ を 殺すころす 時とき から 、 どうも 変へん だ と 思っおもっ て い まし た 。 いつも と 勝手かって が 違うちがう の です 。 どこ という こと は 分らわから ぬ けれども 、 変へん てこ で 、 けれども 彼かれ の 心こころ は 物もの に こだわる こと に 慣れなれ ませ ん ので 、 その とき も 格別かくべつ 深くふかく 心こころ に とめ ませ ん でし た 。
山賊さんぞく は 始めはじめ は 男おとこ を 殺すころす 気き は なかっ た ので 、 身ぐるみみぐるみ 脱がせぬがせ て 、 いつも する よう に とっとと 失せろうせろ と 蹴け とばし て やる つもり でし た が 、 女おんな が 美しうつくし すぎ た ので 、 ふと 、 男おとこ を 斬りきり すて て い まし た 。 彼かれ 自身じしん に 思いがけないおもいがけない 出来事できごと で あっ た ばかり で なく 、 女おんな にとって も 思いがけないおもいがけない 出来事できごと だっ た しるし に 、 山賊さんぞく が ふりむく と 女おんな は 腰こし を ぬかし て 彼かれ の 顔かお を ぼんやり 見つめみつめ まし た 。 今日きょう から お前おまえ は 俺おれ の 女房にょうぼう だ と 言ういう と 、 女おんな は うなずき まし た 。 手て を とっ て 女おんな を 引き起すひきおこす と 、 女おんな は 歩けあるけ ない から オブおぶ って おくれ と 言いいい ます 。 山賊さんぞく は 承知しょうち 承知しょうち と 女おんな を 軽々とかるがると 背負っせおっ て 歩きあるき まし た が 、 険けん 《 け わ 》 し い 登りのぼり 坂ざか へ き て 、 ここ は 危 い から 降りおり て 歩いあるい て 貰おもらお う と 言っいっ て も 、 女おんな は しがみつい て 厭いや 々 、 厭いや ヨよ 、 と 言っいっ て 降りおり ませ ん 。
「 お前おまえ の よう な 山男やまおとこ が 苦しくるし がる ほど の 坂道さかみち を どうして 私わたし が 歩けるあるける もの か 、 考えかんがえ て ごらん よ 」
「 そう か 、 そう か 、 よし よし 」 と 男おとこ は 疲れつかれ て 苦しくくるしく て も 好こう 機嫌きげん でし た 。 「 でも 、 一いち 度ど だけ 降りおり て おくれ 。 私わたし は 強いつよい の だ から 、 苦しくくるしく て 、 一休みひとやすみ し たい という わけ じゃ ない ぜ 。 眼め の 玉たま が 頭あたま の 後のち 側がわ に ある という わけ の もの じゃ ない から 、 さっき から お前おまえ さん を オブおぶ って い て も なんとなく もどかしく て 仕方しかた が ない の だ よ 。 一いち 度ど だけ 下した へ 降りおり て かわいい 顔かお を 拝まおがま し て もらい たい もの だ 」
「 厭いや よ 、 厭いや よ 」 と 、 又また 、 女おんな は やけに 首っ玉くびったま に しがみつき まし た 。 「 私わたし は こんな 淋しいさびしい ところ に 一いち っと き も ジッ として い られ ない ヨよ 。 お前おまえ の うち の ある ところ まで 一いち っと き も 休まやすま ず 急いいそい で おくれ 。 さも ない と 、 私わたし は お前おまえ の 女房にょうぼう に なっ て やら ない よ 。 私わたし に こんな 淋しいさびしい 思いおもい を さ せる なら 、 私わたし は 舌した を 噛んかん で 死んしん で しまう から 」
「 よし よし 。 分っわかっ た 。 お前おまえ の たのみ は なん でも きい て やろ う 」
山賊さんぞく は この 美しいうつくしい 女房にょうぼう を 相手あいて に 未来みらい の たのしみ を 考えかんがえ て 、 とける よう な 幸福こうふく を 感じかんじ まし た 。 彼かれ は 威張りいばり かえって 肩かた を 張っはっ て 、 前まえ の 山やま 、 後ご の 山やま 、 右みぎ の 山やま 、 左ひだり の 山やま 、 ぐるり と 一いち 廻転かいてん し て 女おんな に 見せみせ て 、
「 これ だけ の 山やま という 山やま が みんな 俺おれ の もの な ん だ ぜ 」
と 言いいい まし た が 、 女おんな は そんな こと に は てんで 取りあいとりあい ませ ん 。 彼かれ は 意外いがい に 又また 残念ざんねん で 、
「 いい かい 。 お前おまえ の 目め に 見えるみえる 山やま という 山やま 、 木き という 木き 、 谷たに という 谷たに 、 その 谷たに から わく 雲くも まで 、 みんな 俺おれ の もの な ん だ ぜ 」
「 早くはやく 歩いあるい て おくれ 。 私わたし は こんな 岩いわ コブこぶ だらけ の 崖がけ の 下した に いたく ない の だ から 」
「 よし 、 よし 。 今にいまに うち に つく と 飛びとび きり の 御馳走ごちそう を こしらえ て やる よ 」
「 お前おまえ は もっと 急げいそげ ない の か え 。 走っはしっ て おくれ 」
「 なかなか この 坂道さかみち は 俺おれ が 一いち 人にん でも そう は 駈けかけ られ ない 難所なんしょ だ よ 」
「 お前おまえ も 見かけみかけ に よら ない 意気地いくじ なし だ ねえ 。 私わたし と し た こと が 、 とんだ 甲斐性かいしょう 《 かいしょ 》 なし の 女房にょうぼう に なっ て しまっ た 。 ああ 、 ああ 。 これから 何なに を たより に 暮しくらし たら いい の だろ う 」
「 なに を 馬鹿ばか な 。 これ ぐらい の 坂道さかみち が 」
「 アア 、 もどかしい ねえ 。 お前おまえ は もう 疲れつかれ た の か え 」
「 馬鹿ばか な こと を 。 この 坂道さかみち を つきぬける と 、 鹿しか も かなわ ぬ よう に 走っはしっ て みせる から 」
「 でも お前おまえ の 息いき は 苦しくるし そう だ よ 。 顔色かおいろ が 青いあおい じゃ ない か 」
「 なん でも 物事ものごと の 始めはじめ の うち は そういう もの さ 。 今にいまに 勢いいきおい の はずみ が つけ ば 、 お前おまえ が 背中せなか で 目め を 廻すまわす ぐらい 速くはやく 走るはしる よ 」
けれども 山賊さんぞく は 身体しんたい が 節々ふしぶし から バラバラばらばら に 分かれわかれ て しまっ た よう に 疲れつかれ て い まし た 。 そして わが家わがや の 前まえ へ 辿たど 《 た ど 》 りつ い た とき に は 目め も くらみ 耳みみ も なり 嗄 《 しわ が 》 れ 声こえ の ひと きれ を ふりしぼる 力ちから も あり ませ ん 。 家いえ の 中なか から 七なな 人にん の 女房にょうぼう が 迎えむかえ に 出で て き まし た が 、 山賊さんぞく は 石いし の よう に こわばっ た 身体しんたい を ほぐし て 背中せなか の 女おんな を 下すくだす だけ で 勢ぜい 一いち 杯はい でし た 。
七なな 人にん の 女房にょうぼう は 今いま 迄まで に 見かけみかけ た こと も ない 女おんな の 美しうつくし さ に 打たうた れ まし た が 、 女おんな は 七なな 人にん の 女房にょうぼう の 汚きたな さ に 驚きおどろき まし た 。 七なな 人にん の 女房にょうぼう の 中なか に は 昔むかし は かなり 綺麗きれい な 女おんな も い た の です が 今いま は 見るみる 影かげ も あり ませ ん 。 女おんな は 薄気味悪うすきみわる がっ て 男おとこ の 背せ へ しりぞい て 、
「 この 山女やまめ は 何なに な の よ 」
「 これ は 俺おれ の 昔むかし の 女房にょうぼう な ん だ よ 」
と 男おとこ は 困っこまっ て 「 昔むかし の 」 という 文句もんく を 考えついかんがえつい て 加えくわえ た の は とっさ の 返事へんじ に し て は 良くよく 出来でき て い まし た が 、 女おんな は 容赦ようしゃ が あり ませ ん 。
「 まアまあ 、 これ が お前おまえ の 女房にょうぼう か え 」
「 それ は 、 お前おまえ 、 俺おれ は お前おまえ の よう な 可愛かわい いい 女おんな が いよ う と は 知らしら なかっ た の だ から ね 」
「 あの 女おんな を 斬りきり 殺しころし て おくれ 」
女おんな は いちばん 顔かお 形がた の ととのっ た 一いち 人にん を 指しさし て 叫びさけび まし た 。
「 だって 、 お前おまえ 、 殺さころさ なくっ とも 、 女中じょちゅう だ と 思えおもえ ば いい じゃ ない か 」
「 お前おまえ は 私わたし の 亭主ていしゅ を 殺しころし た くせ に 、 自分じぶん の 女房にょうぼう が 殺せころせ ない の か え 。 お前おまえ は それでも 私わたし を 女房にょうぼう に する つもり な の か え 」
男おとこ の 結ばむすば れ た 口くち から 呻 《 うめ 》 きが もれ まし た 。 男おとこ は とびあがる よう に 一いち 躍りおどり し て 指さささ れ た 女おんな を 斬りきり 倒したおし て い まし た 。 然ししかし 、 息いき つく ひま も あり ませ ん 。
「 この 女おんな よ 。 今度こんど は 、 それ 、 この 女おんな よ 」
男おとこ は ためらい まし た が 、 すぐ ズカズカ 歩いあるい て 行っいっ て 、 女おんな の 頸 《 く び 》 へ ザクリ と ダンだん ビラびら を 斬りきり こみ まし た 。 首くび が まだ コロコロころころ と とまら ぬ うち に 、 女おんな の ふっくら ツヤつや の ある 透きとおるすきとおる 声こえ は 次つぎ の 女おんな を 指しさし て 美しくうつくしく 響いひびい て い まし た 。
「 この 女おんな よ 。 今度こんど は 」
指ささゆびささ れ た 女おんな は 両手りょうて に 顔かお を かくして キャーきゃあ という 叫び声さけびごえ を はりあげ まし た 。 その 叫びさけび に ふりかぶっ て 、 ダンだん ビラびら は 宙ちゅう を 閃いひらめい て 走りはしり まし た 。 残るのこる 女おんな たち は 俄にわか 《 にわか 》 に 一時いちじ に 立りつ 上じょう って 四方しほう に 散りちり まし た 。
「 一いち 人にん でも 逃しのがし たら 承知しょうち し ない よ 。 藪やぶ 《 やぶ 》 の 陰かげ に も 一いち 人にん いる よ 。 上手じょうず へ 一いち 人にん 逃げにげ て 行くいく よ 」
男おとこ は 血刀ちがたな を ふり あげ て 山やま の 林はやし を 駈けかけ 狂いくるい まし た 。 たった 一いち 人にん 逃げにげ おくれ て 腰こし を ぬかし た 女おんな が い まし た 。 それ は いちばん 醜くみにくく て 、 ビッコ の 女おんな でし た が 、 男おとこ が 逃げにげ た 女おんな を 一いち 人にん あまさ ず 斬りきり すて て 戻っもどっ て き て 、 無造作むぞうさ に ダンだん ビラびら を ふり あげ ます と 、
「 いい の よ 。 この 女おんな だけ は 。 これ は 私わたし が 女中じょちゅう に 使うつかう から 」
「 ついで だ から 、 やっ て しまう よ 」
「 バカばか だ ね 。 私わたし が 殺さころさ ない で おくれ と 言ういう の だ よ 」
「 アア 、 そう か 。 ほんと だ 」
男おとこ は 血刀ちがたな を 投げなげ すて て 尻もちしりもち を つき まし た 。 疲れつかれ が ど ッ と こみあげ て 目め が くらみ 、 土ど から 生えはえ た 尻しり の よう に 重みおもみ が 分っわかっ て き まし た 。 ふと 静寂せいじゃく に 気がつききがつき まし た 。 とびたつ よう な 怖こわ ろ し さ が こみあげ 、 ぎょ ッ として 振ふ 向くむく と 、 女おんな は そこ に いくらか やる 瀬せ ない 風情ふぜい で たたずん で い ます 。 男おとこ は 悪夢あくむ から さめ た よう な 気き が し まし た 。 そして 、 目め も 魂たましい も 自然しぜん に 女おんな の 美しうつくし さ に 吸いすい よせ られ て 動かうごか なく なっ て しまい まし た 。 けれども 男おとこ は 不安ふあん でし た 。 どういう 不安ふあん だ か 、 なぜ 、 不安ふあん だ か 、 何なに が 、 不安ふあん だ か 、 彼かれ に は 分らわから ぬ の です 。 女おんな が 美しうつくし すぎ て 、 彼かれ の 魂たましい が それ に 吸いすい よせ られ て い た ので 、 胸むね の 不安ふあん の 波立ちなみだち を さして 気き に せ ず に い られ た だけ です 。
なんだか 、 似に て いる よう だ な 、 と 彼かれ は 思いおもい まし た 。 似に た こと が 、 いつか 、 あっ た 、 それ は 、 と 彼かれ は 考えかんがえ まし た 。 アア 、 そう だ 、 あれ だ 。 気き が つく と 彼かれ は びっくり し まし た 。
桜さくら の 森もり の 満開まんかい の 下もと です 。 あの 下した を 通るとおる 時とき に 似に て い まし た 。 どこ が 、 何なに が 、 どんな 風かぜ に 似に て いる の だ か 分りわかり ませ ん 。 けれども 、 何なに か 、 似に て いる こと は 、 たしか でし た 。 彼かれ に は いつも それ ぐらい の こと しか 分らわから ず 、 それから 先さき は 分らわから なく て も 気き に なら ぬ たち の 男おとこ でし た 。
山やま の 長いながい 冬ふゆ が 終りおわり 、 山やま の てっぺん の 方ほう や 谷たに の くぼみ に 樹き の 陰かげ に 雪ゆき は ポツポツぽつぽつ 残っのこっ て い まし た が 、 やがて 花はな の 季節きせつ が 訪れおとずれ よう として 春はる の きざし が 空そら いち めん に かがやい て い まし た 。
今年ことし 、 桜さくら の 花はな が 咲いさい たら 、 と 、 彼かれ は 考えかんがえ まし た 。 花はな の 下した に さしかかる 時とき は まだ それほど で は あり ませ ん 。 それ で 思いきっおもいきっ て 花はな の 下した へ 歩きあるき こみ ます 。 だんだん 歩くあるく うち に 気き が 変へん に なり 、 前まえ も 後ご も 右みぎ も 左ひだり も 、 どっち を 見み て も 上うえ に かぶさる 花はな ばかり 、 森もり の まんなか に 近づくちかづく と 怖しこわし さ に 盲滅法めくらめっぽう たまらなく なる の でし た 。 今年ことし は ひとつ 、 あの 花はな ざかり の 林はやし の まんなか で 、 ジッ と 動かうごか ず に 、 いや 、 思いきっおもいきっ て 地べたじべた に 坐っすわっ て やろ う 、 と 彼かれ は 考えかんがえ まし た 。 その とき 、 この 女おんな もつれ て 行こいこ う か 、 彼かれ は ふと 考えかんがえ て 、 女おんな の 顔かお を チラ と 見るみる と 、 胸むね さわぎ が し て 慌てあわて て 目め を そらし まし た 。 自分じぶん の 肚 《 はら 》 が 女おんな に 知れしれ て は 大変たいへん だ という 気持きもち が 、 なぜ だ か 胸むね に 焼けやけ 残りのこり まし た 。
✦ Peek女おんな は 大変たいへん な わがまま 者しゃ でし た 。 どんなに 心こころ を こめ た 御馳走ごちそう を こしらえ て やっ て も 、 必ずかならず 不服ふふく を 言いいい まし た 。 彼かれ は 小鳥ことり や 鹿しか を とり に 山やま を 走りはしり まし た 。 猪いの 《 い の しし 》 も 熊くま も とり まし た 。 ビッコ の 女おんな は 木の芽きのめ や 草の根くさのね を さがし て ひねもす 林間りんかん を さまよい まし た 。 然ししかし 女おんな は 満足まんぞく を 示ししめし た こと は あり ませ ん 。
「 毎日まいにち こんな もの を 私わたし に 食えくえ と いう の か え 」
「 だって 、 飛び切りとびきり の 御馳走ごちそう な ん だ ぜ 。 お前おまえ が ここ へ くる まで は 、 十じゅう 日にち に 一いち 度ど ぐらい しか これ だけ の もの は 食わくわ なかっ た もの だ 」
「 お前おまえ は 山男やまおとこ だ から それ で いい の だろ う さ 。 私わたし の 喉のど 《 のど 》 は 通らとおら ない よ 。 こんな 淋 《 さび 》 し い 山奥やまおく で 、 夜よる の 夜長よなが に きく もの と 云えいえ ば 梟ふくろう 《 ふくろう 》 の 声こえ ばかり 、 せめて 食べるたべる 物もの で も 都と に 劣らおとら ぬ おいしい 物もの が 食べたべ られ ない もの か ねえ 。 都と の 風かぜ が どんな もの か 。 その 都と の 風かぜ を せきとめ られ た 私わたし の 思いおもい の せつな さ が どんな もの か 、 お前おまえ に は 察さっ しるこ と も 出来でき ない の だ ね 。 お前おまえ は 私わたし から 都と の 風かぜ を もぎとっ て 、 その 代りかわり に お前おまえ の 呉ご 《 く 》 れ た 物もの と いえ ば 鴉からす 《 からす 》 や 梟ふくろう の 鳴くなく 声こえ ばかり 。 お前おまえ は それ を 羞 《 はず 》 かしい とも 、 むごたらしい と も 思わおもわ ない の だ よ 」
女おんな の 怨 じ る 言葉ことば の 道理どうり が 男おとこ に は 呑みのみ こめ なかっ た の です 。 なぜなら 男おとこ は 都と の 風かぜ が どんな もの だ か 知りしり ませ ん 。 見当けんとう も つか ない の です 。 この 生活せいかつ 、 この 幸福こうふく に 足りたり ない もの が ある という 事実じじつ に 就 《 つい 》 て 思い当るおもいあたる もの が ない 。 彼かれ は ただ 女おんな の 怨 じ る 風情ふぜい の 切なせつな さ に 当惑とうわく し 、 それ を どの よう に 処置しょち し て よい か 目め 当とう に 就 て 何なに の 事実じじつ も 知らしら ない ので 、 もどかし さ に 苦しみくるしみ まし た 。
今いま 迄まで に は 都と から の 旅人たびびと を 何なん 人にん 殺しころし た か 知れしれ ませ ん 。 都と から の 旅人たびびと は 金持かねもち で 所持しょじ 品ひん も 豪華ごうか です から 、 都と は 彼かれ の よい 鴨かも 《 かも 》 で 、 せっかく 所持しょじ 品ひん を 奪っうばっ て み て も 中身なかみ が つまら なかっ たり する と チェッ この 田舎者いなかもの め 、 とか 土百姓どびゃくしょう め とか 罵ののし 《 の の し 》 っ た もの で 、 つまり 彼かれ は 都と に 就 て は それ だけ が 知識ちしき の 全部ぜんぶ で 、 豪華ごうか な 所持しょじ 品ひん を もつ 人達ひとたち の いる ところ で あり 、 彼かれ は それ を まきあげる という 考えかんがえ 以外いがい に 余念よねん は あり ませ ん でし た 。 都と の 空そら が どっち の 方角ほうがく だ という こと すら も 、 考えかんがえ て みる 必要ひつよう が なかっ た の です 。
女おんな は 櫛くし 《 くし 》 だの 笄 《 こうがい 》 だの 簪かんざし 《 かん ざし 》 だの 紅べに 《 べ に 》 だ の を 大事だいじ に し まし た 。 彼かれ が 泥どろ の 手て や 山やま の 獣しし の 血ち に ぬれ た 手て で かすか に 着物きもの に ふれ た だけ でも 女おんな は 彼かれ を 叱りしかり まし た 。 まるで 着物きもの が 女おんな の いのち で ある よう に 、 そして それ を まもる こと が 自分じぶん の つとめ で ある よう に 、 身み の 廻りまわり を 清潔せいけつ に さ せ 、 家いえ の 手入れていれ を 命じめいじ ます 。 その 着物きもの は 一いち 枚まい の 小袖こそで 《 こそ で 》 と 細ほそ 紐ひも 《 ほそ ひも 》 だけ で は 事足りことたり ず 、 何なん 枚まい か の 着物きもの と いくつ も の 紐ひも と 、 そして その 紐ひも は 妙みょう な 形かたち に むすば れ 不ふ 必要ひつよう に 垂れたれ 流さながさ れ て 、 色々いろいろ の 飾り物かざりもの を つけたす こと によって 一つひとつ の 姿すがた が 完成かんせい さ れ て 行くいく の でし た 。 男おとこ は 目め を 見み はり まし た 。 そして 嘆声たんせい を もらし まし た 。 彼かれ は 納得なっとく さ せ られ た の です 。 かくして 一つひとつ の 美び が 成りたちなりたち 、 その 美び に 彼かれ が 満たさみたさ れ て いる 、 それ は 疑るうたぐる 余地よち が ない 、 個こ として は 意味いみ を もた ない 不完全ふかんぜん かつ 不可解ふかかい な 断片だんぺん が 集まるあつまる こと によって 一つひとつ の 物もの を 完成かんせい する 、 その 物もの を 分解ぶんかい すれ ば 無意味むいみ なる 断片だんぺん に 帰き する 、 それ を 彼かれ は 彼かれ らしく 一つひとつ の 妙みょう なる 魔術まじゅつ として 納得なっとく さ せ られ た の でし た 。
男おとこ は 山やま の 木き を 切りきり だし て 女おんな の 命じるめいじる もの を 作りつくり ます 。 何なに 物ぶつ が 、 そして 何なに 用よう に つくら れる の か 、 彼かれ 自身じしん それ を 作りつくり つつ ある うち は 知るしる こと が 出来でき ない の でし た 。 それ は 胡えびす 床ゆか 《 こしょう 》 と 肱ひじ 掛かけ 《 ひじ かけ 》 でし た 。 胡えびす 床ゆか は つまり 椅子いす です 。 お 天気てんき の 日ひ 、 女おんな は これ を 外そと へ 出さださ せ て 、 日向ひなた 《 ひな た 》 に 、 又また 、 木陰こかげ に 、 腰かけこしかけ て 目め を つぶり ます 。 部屋へや の 中なか で は 肱ひじ 掛かけ に も たれ て 物思いものおもい に ふける よう な 、 そして それ は 、 それ を 見るみる 男おとこ の 目め に は すべて が 異様いよう な 、 なまめかしく 、 なやましい 姿すがた に 外そと なら ぬ の でし た 。 魔術まじゅつ は 現実げんじつ に 行わおこなわ れ て おり 、 彼かれ 自らみずから が その 魔術まじゅつ の 助手じょしゅ で あり ながら 、 その 行わおこなわ れる 魔術まじゅつ の 結果けっか に 常につねに 訝いぶか 《 いぶ か 》 り そして 嘆賞たんしょう する の でし た 。
ビッコ の 女おんな は 朝あさ 毎ごと に 女おんな の 長いながい 黒髪くろかみ を くしけずり ます 。 その ため に 用いるもちいる 水みず を 、 男おとこ は 谷川たにがわ の 特にとくに 遠いとおい 清水しみず から くみとり 、 そして 特別とくべつ その よう に 注意ちゅうい を 払うはらう 自分じぶん の 労苦ろうく を なつかしみ まし た 。 自分じぶん 自身じしん が 魔術まじゅつ の 一つひとつ の 力ちから に なり たい という こと が 男おとこ の 願いねがい に なっ て い まし た 。 そして 彼かれ 自身じしん くしけずら れる 黒髪くろかみ に わが 手て を 加えくわえ て み たい もの だ と 思いおもい ます 。 いや よ 、 そんな 手て は 、 と 女おんな は 男おとこ を 払いはらい のけ て 叱りしかり ます 。 男おとこ は 子供こども の よう に 手て を ひっこめ て 、 てれ ながら 、 黒髪くろかみ に ツヤつや が 立ちたち 、 結ばむすば れ 、 そして 顔かお が あらわれ 、 一つひとつ の 美び が 描かえがか れ 生まれうまれ て くる こと を 見果てぬ夢みはてぬゆめ に 思うおもう の でし た 。
「 こんな もの が な ア 」
彼かれ は 模様もよう の ある 櫛くし や 飾かざり の ある 笄 を いじり 廻しまわし まし た 。 それ は 彼かれ が 今いま 迄まで は 意味いみ も 値打ねうち も みとめる こと の でき なかっ た もの でし た が 、 今いま も 尚なお 《 なお 》 、 物もの と 物もの と の 調和ちょうわ や 関係かんけい 、 飾りかざり という 意味いみ の 批判ひはん は あり ませ ん 。 けれども 魔力まりょく が 分りわかり ます 。 魔力まりょく は 物もの の いのち でし た 。 物もの の 中なか に も いのち が あり ます 。
「 お前おまえ が いじっ て は いけ ない よ 。 なぜ 毎日まいにち きまっ た よう に 手て を だす の だろ う ね 」
「 不思議ふしぎ な もの だ な ア 」
「 何なに が 不思議ふしぎ な の さ 」
「 何なに が って こと も ない けど さ 」
と 男おとこ は てれ まし た 。 彼かれ に は 驚きおどろき が あり まし た が 、 その 対象たいしょう は 分らわから ぬ の です 。
そして 男おとこ に 都と を 怖こわ れる 心こころ が 生れうまれ て い まし た 。 その 怖こわ れ は 恐怖きょうふ で は なく 、 知らしら ない という こと に対するにたいする 羞恥しゅうち と 不安ふあん で 、 物知りものしり が 未知みち の 事柄ことがら に いだく 不安ふあん と 羞恥しゅうち に 似に て い まし た 。 女おんな が 「 都と 」 という たび に 彼かれ の 心こころ は 怯 《 おび 》 え 戦せん 《 おの の 》 き まし た 。 けれども 彼かれ は 目め に 見えるみえる 何なに 物ぶつ も 怖こわ れ た こと が なかっ た ので 、 怖こわ れ の 心こころ に なじみ が なく 、 羞 じ る 心こころ に も 馴れなれ て い ませ ん 。 そして 彼かれ は 都と に対してにたいして 敵意てきい だけ を もち まし た 。
何なん 百ひゃく 何なん 千せん の 都と から の 旅人たびびと を 襲っおそっ た が 手て に 立つたつ 者もの が なかっ た の だ から 、 と 彼かれ は 満足まんぞく し て 考えかんがえ まし た 。 どんな 過去かこ を 思いだしおもいだし て も 、 裏切らうらぎら れ 傷きず けら れる 不安ふあん が あり ませ ん 。 それに 気き 附くつく と 、 彼かれ は 常につねに 愉快ゆかい で 又また 誇りほこり や か でし た 。 彼かれ は 女おんな の 美び に対してにたいして 自分じぶん の 強つよ さ を 対比たいひ し まし た 。 そして 強つよ さ の 自覚じかく の 上うえ で 多少たしょう の 苦手にがて と 見み られる もの は 猪いのしし だけ でし た 。 その 猪いのしし も 実際じっさい は さして 怖こわ る べき 敵てき で も ない ので 、 彼かれ は ゆとり が あり まし た 。
「 都と に は 牙きば の ある 人間にんげん が いる かい 」
「 弓ゆみ を もっ た サムライさむらい が いる よ 」
「 ハッハッハはっはっは 。 弓ゆみ なら 俺おれ は 谷たに の 向うむこう の 雀すずめ の 子こ でも 落すおとす の だ から な 。 都と に は 刀かたな が 折れおれ て しまう よう な 皮かわ の 堅いかたい 人間にんげん は い ない だろ う 」
「 鎧よろい 《 よろい 》 を き た サムライさむらい が いる よ 」
「 鎧よろい は 刀かたな が 折れるおれる の か 」
「 折れるおれる よ 」
「 俺おれ は 熊くま も 猪いのしし も 組み伏せくみふせ て しまう の だ から な 」
「 お前おまえ が 本当にほんとうに 強いつよい 男おとこ なら 、 私わたし を 都と へ 連れつれ て 行っいっ て おくれ 。 お前おまえ の 力ちから で 、 私わたし の 欲しいほしい 物もの 、 都と の 粋いき を 私わたし の 身み の 廻りまわり へ 飾っかざっ て おくれ 。 そして 私わたし に シンしん から 楽しいたのしい 思いおもい を 授けさづけ て くれる こと が できる なら 、 お前おまえ は 本当にほんとうに 強いつよい 男おとこ な の さ 」
「 わけ の ない こと だ 」
男おとこ は 都と へ 行くいく こと に 心こころ を きめ まし た 。 彼かれ は 都と に あり とある 櫛くし や 笄 や 簪かんざし や 着物きもの や 鏡かがみ や 紅べに を 三さん 日にち 三さん 晩ばん と たた ない うち に 女おんな の 廻りまわり へ 積みつみ あげ て みせる つもり でし た 。 何なに の 気がかりきがかり も あり ませ ん 。 一つひとつ だけ 気き に かかる こと は 、 まったく 都と に 関係かんけい の ない 別べつ な こと でし た 。
それ は 桜さくら の 森もり でし た 。
二に 日にち か 三さん 日にち の 後のち に 森もり の 満開まんかい が 訪れよおとずれよ う と し て い まし た 。 今年ことし こそ 、 彼かれ は 決意けつい し て い まし た 。 桜さくら の 森もり の 花はな ざかり の まんなか で 、 身動きみうごき も せ ず ジッ と 坐っすわっ て い て みせる 。 彼かれ は 毎日まいにち ひそか に 桜さくら の 森もり へ でかけ て 蕾つぼみ 《 つぼみ 》 の ふくらみ を はかっ て い まし た 。 あと 三さん 日にち 、 彼かれ は 出発しゅっぱつ を 急ぐいそぐ 女おんな に 言いいい まし た 。
「 お前おまえ に 支度したく の 面倒めんどう が ある もの か ね 」 と 女おんな は 眉まゆ を よせ まし た 。 「 じらさ ない で おくれ 。 都と が 私わたし を よん で いる の だ よ 」
「 それでも 約束やくそく が ある から ね 」
「 お前おまえ が かえ 。 この 山奥やまおく に 約束やくそく し た 誰だれ が いる の さ 」
「 それ は 誰だれ も い ない けれども 、 ね 。 けれども 、 約束やくそく が ある の だ よ 」
「 それ は マア 珍しいめずらしい こと が ある もの だ ねえ 。 誰だれ も い なくっ て 誰だれ と 約束やくそく する の だ え 」
男おとこ は 嘘うそ が つけ なく なり まし た 。
「 桜さくら の 花はな が 咲くさく の だ よ 」
「 桜さくら の 花はな と 約束やくそく し た の か え 」
「 桜さくら の 花はな が 咲くさく から 、 それ を 見み て から 出掛けでかけ なけれ ば なら ない の だ よ 」
「 どういう わけ で 」
「 桜さくら の 森もり の 下した へ 行っいっ て み なけれ ば なら ない から だ よ 」
「 だから 、 なぜ 行っいっ て 見み なけれ ば なら ない の よ 」
「 花はな が 咲くさく から だ よ 」
「 花はな が 咲くさく から 、 なぜ さ 」
「 花はな の 下した は 冷めさめ たい 風かぜ が はりつめ て いる から だ よ 」
「 花はな の 下した に かえ 」
「 花はな の 下した は 涯 《 はて 》 が ない から だ よ 」
「 花はな の 下した が かえ 」
男おとこ は 分らわから なく なっ て クシャクシャくしゃくしゃ し まし た 。
「 私わたし も 花はな の 下した へ 連れつれ て 行っいっ て おくれ 」
「 それ は 、 だめ だ 」
男おとこ は キッパリきっぱり 言いいい まし た 。
「 一いち 人にん で なく ちゃ 、 だめ な ん だ 」
女おんな は 苦笑くしょう し まし た 。
男おとこ は 苦笑くしょう という もの を 始めはじめ て 見み まし た 。 そんな 意地いじ の 悪いわるい 笑いわらい を 彼かれ は 今いま まで 知らしら なかっ た の でし た 。 そして それ を 彼かれ は 「 意地いじ の 悪いわるい 」 という 風かぜ に は 判断はんだん せ ず に 、 刀かたな で 斬っきっ て も 斬れきれ ない よう に 、 と 判断はんだん し まし た 。 その 証拠しょうこ に は 、 苦笑くしょう は 彼かれ の 頭あたま に ハンはん を 捺 《 お 》 し た よう に 刻みつけきざみつけ られ て しまっ た から です 。 それ は 刀かたな の 刃は の よう に 思いだすおもいだす たび に チクチクちくちく 頭あたま を きり まし た 。 そして 彼かれ が それ を 斬るきる こと は でき ない の でし た 。
三さん 日にち 目め が き まし た 。
彼かれ は ひそか に 出かけでかけ まし た 。 桜さくら の 森もり は 満開まんかい でし た 。 一足いっそく ふみこむ とき 、 彼かれ は 女おんな の 苦笑くしょう を 思いだしおもいだし まし た 。 それ は 今いま まで に 覚えおぼえ の ない 鋭するど さ で 頭あたま を 斬りきり まし た 。 それ だけ で もう 彼かれ は 混乱こんらん し て い まし た 。 花はな の 下した の 冷めさめ た さ は 涯 の ない 四方しほう から ドッ と 押し寄せおしよせ て き まし た 。 彼かれ の 身体しんたい は 忽 《 たち ま 》 ち その 風かぜ に 吹きふき さらさ れ て 透明とうめい に なり 、 四方しほう の 風かぜ は ゴウゴウ と 吹きふき 通りどおり 、 すでに 風かぜ だけ が はりつめ て いる の でし た 。 彼かれ の 声こえ のみ が 叫びさけび まし た 。 彼かれ は 走りはしり まし た 。 何なに という 虚空こくう でしょ う 。 彼かれ は 泣きなき 、 祈りいのり 、 もがき 、 ただ 逃げにげ 去ろさろ う と し て い まし た 。 そして 、 花はな の 下した を ぬけだし た こと が 分っわかっ た とき 、 夢ゆめ の 中なか から 我わが に かえっ た 同じおなじ 気持きもち を 見出しみいだし まし た 。 夢ゆめ と 違っちがっ て いる こと は 、 本当にほんとうに 息いき も 絶え絶えたえだえ に なっ て いる 身み の 苦しくるし さ で あり まし た 。
✦ Peek男おとこ と 女おんな と ビッコ の 女おんな は 都と に 住みすみ はじめ まし た 。
男おとこ は 夜毎よごと に 女おんな の 命じるめいじる 邸宅ていたく へ 忍びしのび 入りはいり まし た 。 着物きもの や 宝石ほうせき や 装身具そうしんぐ も 持ちもち だし まし た が 、 それ のみ が 女おんな の 心こころ を 充たすみたす 物もの で は あり ませ ん でし た 。 女おんな の 何よりなにより 欲しほし がる もの は 、 その 家いえ に 住むすむ 人ひと の 首くび でし た 。
彼等かれら の 家いえ に は すでに 何なん 十じゅう の 邸宅ていたく の 首くび が 集めあつめ られ て い まし た 。 部屋へや の 四方しほう の 衝立ついたて 《 ついたて 》 に 仕切らしきら れ て 首くび は 並べならべ られ 、 ある 首くび は つるさ れ 、 男おとこ に は 首くび の 数かず が 多おお すぎ て どれ が どれ やら 分らわから なく とも 、 女おんな は 一々いちいち 覚えおぼえ て おり 、 すでに 毛け が ぬけ 、 肉にく が くさり 、 白骨はっこつ に なっ て も 、 どこ の たれ という こと を 覚えおぼえ て い まし た 。 男おとこ や ビッコ の 女おんな が 首くび の 場所ばしょ を 変えるかえる と 怒りいかり 、 ここ は どこ の 家族かぞく 、 ここ は 誰だれ の 家族かぞく と やかましく 言いいい まし た 。
女おんな は 毎日まいにち 首くび 遊びあそび を し まし た 。 首くび は 家来けらい を つれ て 散歩さんぽ に で ます 。 首くび の 家族かぞく へ 別べつ の 首くび の 家族かぞく が 遊びあそび に 来き ます 。 首くび が 恋こい を し ます 。 女おんな の 首くび が 男おとこ の 首くび を ふり 、 又また 、 男おとこ の 首くび が 女おんな の 首くび を すて て 女おんな の 首くび を 泣かせるなかせる こと も あり まし た 。
姫ひめ 君くん の 首くび は 大納言だいなごん の 首くび に だまさ れ まし た 。 大納言だいなごん の 首くび は 月つき の ない 夜よる 、 姫ひめ 君くん の 首くび の 恋するこいする 人ひと の 首くび の ふり を し て 忍んしのん で 行っいっ て 契ちぎり 《 ちぎ 》 り を 結びむすび ます 。 契りちぎり の 後のち に 姫君ひめぎみ の 首くび が 気がつききがつき ます 。 姫ひめ 君くん の 首くび は 大納言だいなごん の 首くび を 憎むにくむ こと が でき ず 我が身わがみ の さだめ の 悲しかなし さ に 泣いない て 、 尼あま に なる の でし た 。 すると 大納言だいなごん の 首くび は 尼寺あまでら へ 行っいっ て 、 尼あま に なっ た 姫君ひめぎみ の 首くび を 犯しおかし ます 。 姫ひめ 君くん の 首くび は 死のしの う と し ます が 大納言だいなごん の ささやき に 負けまけ て 尼寺あまでら を 逃げにげ て 山科やましな 《 やまし な 》 の 里さと へ かくれ て 大納言だいなごん の 首くび の かこい 者しゃ と なっ て 髪の毛かみのけ を 生やしはやし ます 。 姫ひめ 君くん の 首くび も 大納言だいなごん の 首くび も もはや 毛け が ぬけ 肉にく が くさり ウジうじ 虫ちゅう が わき 骨ぼね が のぞけ て い まし た 。 二に 人にん の 首くび は 酒さけ も り を し て 恋こい に た わ ぶれ 、 歯は の 骨ほね と 歯は の 骨ほね と 噛み合っかみあっ て カチカチかちかち 鳴りなり 、 くさっ た 肉にく が ペチャペチャ くっつき 合いあい 鼻はな も つぶれ 目の玉めのたま も くりぬけ て い まし た 。
ペチャペチャ とく ッ つき 二に 人にん の 顔かお の 形かたち が くずれる たび に 女おんな は 大だい 喜びよろこび で 、 けたたましく 笑いわらい さざめき まし た 。
「 ほれ 、 ホッペタ を 食べたべ て やり なさい 。 ああ おいしい 。 姫ひめ 君くん の 喉のど も たべ て やり ましょ う 。 ハイはい 、 目の玉めのたま も かじり ましょ う 。 すすっ て やり ましょ う ね 。 ハイはい 、 ペロペロ 。 アラ 、 おいしい ね 。 もう 、 たまらない の よ 、 ねえ 、 ほら 、 ウンうん と かじりつい て やれ 」
女おんな は カラカラからから 笑いわらい ます 。 綺麗きれい 《 きれい 》 な 澄んすん だ 笑い声わらいごえ です 。 薄いうすい 陶器とうき が 鳴るなる よう な 爽やかさわやか な 声こえ でし た 。
坊主ぼうず の 首くび も あり まし た 。 坊主ぼうず の 首くび は 女おんな に 憎がらにくがら れ て い まし た 。 いつも 悪いわるい 役やく を ふら れ 、 憎まれにくまれ て 、 嬲なぶ 《 なぶ 》 り 殺しころし に さ れ たり 、 役人やくにん に 処刑しょけい さ れ たり し まし た 。 坊主ぼうず の 首くび は 首くび に なっ て 後ご に 却 《 かえ 》 って 毛もう が 生えはえ 、 やがて その 毛け も ぬけ て くさり は て 、 白骨はっこつ に なり まし た 。 白骨はっこつ に なる と 、 女おんな は 別べつ の 坊主ぼうず の 首くび を 持っもっ て くる よう に 命じめいじ まし た 。 新しいあたらしい 坊主ぼうず の 首くび は まだ うら若いうらわかい 水みず 々 しい 稚いとけな 子こ 《 ちご 》 の 美しうつくし さ が 残っのこっ て い まし た 。 女おんな は よろこん で 机つくえ に のせ 酒しゅ を ふくま せ 頬ずりほおずり し て 舐ねぶ 《 な 》 め たり くすぐっ たり し まし た が 、 じき あき まし た 。
「 もっと 太っふとっ た 憎たらしいにくたらしい 首くび よ 」
女おんな は 命じめいじ まし た 。 男おとこ は 面倒めんどう に なっ て 五ご ツ ほど ブラぶら さげ て 来き まし た 。 ヨボヨボ の 老ろう 僧そう の 首くび も 、 眉まゆ の 太いふとい 頬ほお っ ぺたの 厚いあつい 、 蛙かえる 《 かえる 》 が しがみつい て いる よう な 鼻はな の 形かたち の 顔かお も あり まし た 。 耳みみ の とがっ た 馬うま の よう な 坊主ぼうず の 首くび も 、 ひどく 神妙しんみょう な 首くび の 坊主ぼうず も あり ます 。 けれども 女おんな の 気に入っきにいっ た の は 一つひとつ でし た 。 それ は 五ご 十じゅう ぐらい の 大だい 坊主ぼうず の 首くび で 、 ブ 男おとこ で 目尻めじり が たれ 、 頬ほお が たるみ 、 唇くちびる が 厚くあつく て 、 その 重おも さ で 口くち が あい て いる よう な だらし の ない 首くび でし た 。 女おんな は たれ た 目尻めじり の 両端りょうたん を 両手りょうて の 指ゆび の 先さき で 押えおさえ て 、 クリくり クリくり と 吊りあげつりあげ て 廻しまわし たり 、 獅子鼻ししばな 《 しし ば な 》 の 孔あな へ 二に 本ほん の 棒ぼう を さしこん だり 、 逆ささかさ に 立てたて て ころがし たり 、 だきしめ て 自分じぶん の お 乳ちち を 厚いあつい 唇くちびる の 間ま へ 押しおし こん で シャブ ら せ たり し て 大笑いおおわらい し まし た 。 けれども じき に あき まし た 。
美しいうつくしい 娘むすめ の 首くび が あり まし た 。 清らかきよらか な 静かしずか な 高貴こうき な 首くび でし た 。 子供こども っぽく て 、 その くせ 死んしん だ 顔かお です から 妙みょう に 大人びおとなび た 憂いうれい が あり 、 閉じとじ られ た マブタ の 奥おく に 楽しいたのしい 思いおもい も 悲しいかなしい 思いおもい も マセ た 思いおもい も 一いち 度ど に ゴッ ちゃ に 隠さかくさ れ て いる よう でし た 。 女おんな は その 首くび を 自分じぶん の 娘むすめ か 妹いもうと の よう に 可愛がりかわいがり まし た 。 黒いくろい 髪の毛かみのけ を すい て やり 、 顔かお に お 化粧けしょう し て やり まし た 。 ああ でも ない 、 こう でも ない と 念ねん を 入れいれ て 、 花はな の 香りかおり の むらだつ よう な やさしい 顔かお が 浮きうき あがり まし た 。
娘むすめ の 首くび の ため に 、 一いち 人にん の 若いわかい 貴公子きこうし の 首くび が 必要ひつよう でし た 。 貴公子きこうし の 首くび も 念入りねんいり に お 化粧けしょう さ れ 、 二に 人にん の 若者わかもの の 首くび は 燃えもえ 狂うくるう よう な 恋こい の 遊びあそび に ふけり ます 。 すね たり 、 怒っおこっ たり 、 憎んにくん だり 、 嘘うそ を つい たり 、 だまし たり 、 悲しいかなしい 顔かお を し て みせ たり 、 けれども 二に 人にん の 情熱じょうねつ が 一いち 度ど に 燃えもえ あがる とき は 一いち 人にん の 火ひ が めいめい 他た の 一いち 人にん を 焼きやき こがし て どっち も 焼かやか れ て 舞いあがるまいあがる 火焔かえん に なっ て 燃えもえ まじり まし た 。 けれども 間もなくまもなく 悪あく 侍さむらい だの 色好みいろごのみ の 大人おとな だの 悪僧あくそう だの 汚いきたない 首くび が 邪魔じゃま に で て 、 貴公子きこうし の 首くび は 蹴らけら れ て 打たうた れ た あげく に 殺さころさ れ て 、 右みぎ から 左ひだり から 前まえ から 後のち から 汚いきたない 首くび が ゴチャゴチャごちゃごちゃ 娘むすめ に 挑みいどみ かかっ て 、 娘むすめ の 首くび に は 汚いきたない 首くび の 腐っくさっ た 肉にく が へばりつき 、 牙きば の よう な 歯は に 食いつかくいつか れ 、 鼻はな の 先さき が 欠けかけ たり 、 毛もう が むしら れ たり し ます 。 すると 女おんな は 娘むすめ の 首くび を 針はり で つつい て 穴あな を あけ 、 小刀こがたな で 切っきっ たり 、 え ぐったり 、 誰だれ の 首くび より も 汚らしいきたならしい 目め も 当てあて られ ない 首くび に し て 投げだすなげだす の でし た 。
男おとこ は 都と を 嫌いきらい まし た 。 都と の 珍ちん らし さ も 馴れなれ て しまう と 、 なじめ ない 気持きもち ばかり が 残りのこり まし た 。 彼かれ も 都と で は 人並ひとなみ に 水干すいかん 《 す いかん 》 を 着き て も 脛はぎ 《 すね 》 を だし て 歩いあるい て い まし た 。 白昼はくちゅう は 刀かたな を さす こと も 出来でき ませ ん 。 市し へ 買物かいもの に 行かいか なけれ ば なり ませ ん し 、 白首しらくび の いる 居酒屋いざかや で 酒さけ を のん で も 金きん を 払わはらわ ね ば なり ませ ん 。 市し の 商人しょうにん は 彼かれ を なぶり まし た 。 野菜やさい を つん で 売りうり に くる 田舎いなか 女おんな も 子供こども まで なぶり まし た 。 白首しらくび も 彼かれ を 笑いわらい まし た 。 都と で は 貴族きぞく は 牛車ぎゅうしゃ で 道みち の まんなか を 通りとおり ます 。 水干すいかん を き た 跣はだし 足あし 《 はだし 》 の 家来けらい は たいがい ふるまい 酒さけ に 顔かお を 赤くあかく し て 威張りいばり ちらし て 歩いあるい て 行きいき まし た 。 彼かれ は マヌケ だの バカばか だの ノロマ だ の と 市し で も 路上ろじょう で も お寺おてら の 庭にわ で も 怒鳴らどなら れ まし た 。 それでも う それ ぐらい の こと に は 腹はら が 立たたた なく なっ て い まし た 。
男おとこ は 何なに より も 退屈たいくつ に 苦しみくるしみ まし た 。 人間にんげん 共ども という もの は 退屈たいくつ な もの だ 、 と 彼かれ は つくづく 思いおもい まし た 。 彼かれ は つまり 人間にんげん が うるさい の でし た 。 大きなおおきな 犬いぬ が 歩いあるい て いる と 、 小さなちいさな 犬いぬ が 吠えほえ ます 。 男おとこ は 吠えほえ られる 犬いぬ の よう な もの でし た 。 彼かれ は ひがん だり 嫉 《 ねた 》 ん だり すね たり 考えかんがえ たり する こと が 嫌いきらい でし た 。 山やま の 獣しし や 樹き や 川かわ や 鳥とり は うるさく は なかっ た が な 、 と 彼かれ は 思いおもい まし た 。
「 都と は 退屈たいくつ な ところ だ な ア 」 と 彼かれ は ビッコ の 女おんな に 言いいい まし た 。 「 お前おまえ は 山やま へ 帰りかえり たい と 思わおもわ ない か 」
「 私わたし は 都と は 退屈たいくつ で は ない から ね 」
と ビッコ の 女おんな は 答えこたえ まし た 。 ビッコ の 女おんな は 一いち 日にち 中ちゅう 料理りょうり を こしらえ 洗濯せんたく し 近所きんじょ の 人達ひとたち と お 喋ちょう 《 しゃべ 》 り し て い まし た 。
「 都と で は お喋りおしゃべり が できる から 退屈たいくつ し ない よ 。 私わたし は 山やま は 退屈たいくつ で 嫌いきらい さ 」
「 お前おまえ は お喋りおしゃべり が 退屈たいくつ で ない の か 」
「 あたりまえ さ 。 誰だれ だって 喋っしゃべっ て いれ ば 退屈たいくつ し ない もの だ よ 」
「 俺おれ は 喋れしゃべれ ば 喋るしゃべる ほど 退屈たいくつ する の に なあ 」
「 お前おまえ は 喋らしゃべら ない から 退屈たいくつ な の さ 」
「 そんな こと が ある もの か 。 喋るしゃべる と 退屈たいくつ する から 喋らしゃべら ない の だ 」
「 でも 喋っしゃべっ て ごらん よ 。 きっと 退屈たいくつ を 忘れるわすれる から 」
「 何なに を 」
「 何でもなんでも 喋りしゃべり たい こと を さ 」
「 喋りしゃべり たい こと なんか ある もの か 」
男おとこ は いまいまし がっ て アクビ を し まし た 。
都と に も 山やま が あり まし た 。 然ししかし 、 山の上やまのうえ に は 寺てら が あっ たり 庵あん が あっ たり 、 そして 、 そこ に は 却 《 かえ 》 って 多くおおく の 人ひと の 往来おうらい が あり まし た 。 山やま から 都と が 一目いちもく に 見えみえ ます 。 なんと いう たくさん の 家いえ だろ う 。 そして 、 なんと いう 汚いきたない 眺めながめ だろ う 、 と 思いおもい まし た 。
彼かれ は 毎晩まいばん 人じん を 殺しころし て いる こと を 昼ひる は 殆どほとんど 忘れわすれ て い まし た 。 なぜなら 彼かれ は 人ひと を 殺すころす こと に も 退屈たいくつ し て いる から でし た 。 何なに も 興味きょうみ は あり ませ ん 。 刀かたな で 叩くたたく と 首くび が ポロリぽろり と 落ちおち て いる だけ でし た 。 首くび は やわらかい もの でし た 。 骨ほね の 手応えてごたえ は まったく 感じるかんじる こと が ない もの で 、 大根だいこん を 斬るきる の と 同じおなじ よう な もの でし た 。 その 首くび の 重おも さ の 方ほう が 彼かれ に は 余程よほど 意外いがい でし た 。
彼かれ に は 女おんな の 気持きもち が 分るわかる よう な 気き が し まし た 。 鐘かね つき 堂どう で は 一いち 人にん の 坊主ぼうず が ヤケ に なっ て 鐘かね を つい て い ます 。 何なに という バカげばかげ た こと を やる の だろ う と 彼かれ は 思いおもい まし た 。 何なに を やり だす か 分りわかり ませ ん 。 こういう 奴等やつら と 顔かお を 見合っみあっ て 暮すくらす と し たら 、 俺おれ でも 奴等やつら を 首くび に し て 一緒いっしょ に 暮すくらす こと を 選ぶえらぶ だろ う さ 、 と 思うおもう の でし た 。
けれども 彼かれ は 女おんな の 欲望よくぼう に キリきり が ない ので 、 その こと に も 退屈たいくつ し て い た の でし た 。 女おんな の 欲望よくぼう は 、 いわば 常につねに キリきり も なく 空そら を 直線ちょくせん に 飛びとび つづけ て いる 鳥とり の よう な もの でし た 。 休むやすむ ひま なく 常につねに 直線ちょくせん に 飛びとび つづけ て いる の です 。 その 鳥とり は 疲れつかれ ませ ん 。 常につねに 爽快そうかい に 風かぜ を きり 、 スイスイすいすい と 小気味よくこきみよく 無限むげん に 飛びとび つづけ て いる の でし た 。
けれども 彼かれ は ただ の 鳥とり でし た 。 枝えだ から 枝えだ を 飛び廻りとびまわり 、 たまに 谷たに を 渉わたる 《 わた 》 る ぐらい が せいぜい で 、 枝えだ に とまっ て うたた ね し て いる 梟ふくろう に も 似に て い まし た 。 彼かれ は 敏捷びんしょう 《 びんしょう 》 でし た 。 全身ぜんしん が よく 動きうごき 、 よく 歩きあるき 、 動作どうさ は 生き生きいきいき し て い まし た 。 彼かれ の 心こころ は 然ししかし 尻しり の 重たいおもたい 鳥とり な の でし た 。 彼かれ は 無限むげん に 直線ちょくせん に 飛ぶとぶ こと など は 思いおもい も よら ない の です 。
男おとこ は 山の上やまのうえ から 都と の 空そら を 眺めながめ て い ます 。 その 空そら を 一いち 羽わ の 鳥とり が 直線ちょくせん に 飛んとん で 行きいき ます 。 空そら は 昼ひる から 夜よる に なり 、 夜よる から 昼ひる に なり 、 無限むげん の 明暗めいあん が くりかえし つづき ます 。 その 涯 に 何なに も なく いつ まで たっ て も ただ 無限むげん の 明暗めいあん が ある だけ 、 男おとこ は 無限むげん を 事実じじつ に 於 て 納得なっとく する こと が でき ませ ん 。 その 先の日さきのひ 、 その 先の日さきのひ 、 その 又また 先の日さきのひ 、 明暗めいあん の 無限むげん の くりかえし を 考えかんがえ ます 。 彼かれ の 頭あたま は 割れわれ そう に なり まし た 。 それ は 考えかんがえ の 疲れつかれ で なし に 、 考えかんがえ の 苦しくるし さ の ため でし た 。
家いえ へ 帰るかえる と 、 女おんな は いつも の よう に 首くび 遊びあそび に 耽ふけ 《 ふけ 》 って い まし た 。 彼かれ の 姿すがた を 見るみる と 、 女おんな は 待ち構えまちかまえ て い た の でし た 。
「 今夜こんや は 白拍子しらびょうし 《 しら びょう し 》 の 首くび を 持っもっ て き て おくれ 。 とびきり 美しいうつくしい 白拍子しらびょうし の 首くび だ よ 。 舞いまい を 舞わまわ せる の だ から 。 私わたし が 今様いまよう 《 いま よう 》 を 唄っうたっ て きかせ て あげる よ 」
男おとこ は さっき 山の上やまのうえ から 見つめみつめ て い た 無限むげん の 明暗めいあん を 思いだそおもいだそ う と し まし た 。 この 部屋へや が あの いつ まで も 涯 の ない 無限むげん の 明暗めいあん の くりかえし の 空そら の 筈はず です が 、 それ は もう 思いだすおもいだす こと が でき ませ ん 。 そして 女おんな は 鳥とり で は なし に 、 やっぱり 美しいうつくしい いつも の 女おんな で あり まし た 。 けれども 彼かれ は 答えこたえ まし た 。
「 俺おれ は 厭いや だ よ 」
女おんな は びっくり し まし た 。 その あげく に 笑いわらい だし まし た 。
「 おや おや 。 お前おまえ も 臆病おくびょう 風ふう に 吹かふか れ た の 。 お前おまえ も ただ の 弱虫よわむし ね 」
「 そんな 弱虫よわむし じゃ ない の だ 」
「 じゃ 、 何なに さ 」
「 キリきり が ない から 厭いや に なっ た の さ 」
「 あら 、 おかしい ね 。 なん でも キリきり が ない もの よ 。 毎日まいにち 毎日まいにち ごはん を 食べたべ て 、 キリきり が ない じゃ ない か 。 毎日まいにち 毎日まいにち ねむっ て 、 キリきり が ない じゃ ない か 」
「 それ と 違うちがう の だ 」
「 どんな 風かぜ に 違うちがう の よ 」
男おとこ は 返事へんじ に つまり まし た 。 けれども 違うちがう と 思いおもい まし た 。 それ で 言いくるめいいくるめ られる 苦しくるし さ を 逃れのがれ て 外そと へ 出で まし た 。
「 白拍子しらびょうし の 首くび を もっ て おい で 」
女おんな の 声こえ が 後ご から 呼びかけよびかけ まし た が 、 彼かれ は 答えこたえ ませ ん でし た 。
彼かれ は なぜ 、 どんな 風かぜ に 違うちがう の だろ う と 考えかんがえ まし た が 分りわかり ませ ん 。 だんだん 夜よる に なり まし た 。 彼かれ は 又また 山の上やまのうえ へ 登りのぼり まし た 。 もう 空そら も 見えみえ なく なっ て い まし た 。
彼かれ は 気き が つく と 、 空そら が 落ちおち て くる こと を 考えかんがえ て い まし た 。 空そら が 落ちおち て き ます 。 彼かれ は 首くび を しめつけ られる よう に 苦しんくるしん で い まし た 。 それ は 女おんな を 殺すころす こと でし た 。
空そら の 無限むげん の 明暗めいあん を 走りはしり つづける こと は 、 女おんな を 殺すころす こと によって 、 とめる こと が でき ます 。 そして 、 空そら は 落ちおち て き ます 。 彼かれ は ホッほっ と する こと が でき ます 。 然ししかし 、 彼かれ の 心臓しんぞう に は 孔あな が あい て いる の でし た 。 彼かれ の 胸むね から 鳥とり の 姿すがた が 飛びとび 去りさり 、 掻き消えかききえ て いる の でし た 。
あの 女おんな が 俺おれ な ん だろ う か ? そして 空そら を 無限むげん に 直線ちょくせん に 飛ぶとぶ 鳥とり が 俺おれ 自身じしん だっ た の だろ う か ? と 彼かれ は 疑りうたぐり まし た 。 女おんな を 殺すころす と 、 俺おれ を 殺しころし て しまう の だろ う か 。 俺おれ は 何なに を 考えかんがえ て いる の だろ う ?
なぜ 空そら を 落さおとさ ね ば なら ない の だ か 、 それ も 分らわから なく なっ て い まし た 。 あらゆる 想念そうねん が 捉えとらえ がたい もの で あり まし た 。 そして 想念そうねん の ひい た あと に 残るのこる もの は 苦痛くつう のみ でし た 。 夜よる が 明けあけ まし た 。 彼かれ は 女おんな の いる 家いえ へ 戻るもどる 勇気ゆうき が 失わうしなわ れ て い まし た 。 そして 数すう 日にち 、 山中さんちゅう を さまよい まし た 。
ある 朝あさ 、 目め が さめる と 、 彼かれ は 桜さくら の 花はな の 下した に ね て い まし た 。 その 桜さくら の 木き は 一いち 本ほん でし た 。 桜さくら の 木き は 満開まんかい でし た 。 彼かれ は 驚いおどろい て 飛び起きとびおき まし た が 、 それ は 逃げだすにげだす ため で は あり ませ ん 。 なぜなら 、 たった 一いち 本ほん の 桜さくら の 木き でし た から 。 彼かれ は 鈴鹿すずか の 山やま の 桜さくら の 森もり の こと を 突然とつぜん 思いおもい だし て い た の でし た 。 あの 山やま の 桜さくら の 森もり も 花盛りはなざかり に ちがい あり ませ ん 。 彼かれ は なつかし さ に 吾われ を 忘れわすれ 、 深いふかい 物思いものおもい に 沈みしずみ まし た 。
山やま へ 帰ろかえろ う 。 山やま へ 帰るかえる の だ 。 なぜ この 単純たんじゅん な こと を 忘れわすれ て い た の だろ う ? そして 、 なぜ 空そら を 落すおとす こと など を 考えかんがえ 耽っふけっ て い た の だろ う ? 彼かれ は 悪夢あくむ の さめ た 思いおもい が し まし た 。 救わすくわ れ た 思いおもい が し まし た 。 今いま まで その 知覚ちかく まで 失っうしなっ て い た 山やま の 早春そうしゅん の 匂いにおい が 身み に せまっ て 強くつよく 冷めさめ たく 分るわかる の でし た 。
男おとこ は 家いえ へ 帰りかえり まし た 。
女おんな は 嬉しうれし げに 彼かれ を 迎えむかえ まし た 。
「 どこ へ 行っいっ て い た の さ 。 無理むり な こと を 言っいっ て お前おまえ を 苦しめくるしめ て すま なかっ た わ ね 。 でも 、 お前おまえ が い なく なっ て から の 私わたし の 淋しさびし さ を 察しさっし て おくれ な 」
女おんな が こんなに やさしい こと は 今いま まで に ない こと でし た 。 男おとこ の 胸むね は 痛みいたみ まし た 。 もう すこし で 彼かれ の 決意けつい は とけ て 消えきえ て しまい そう です 。 けれども 彼かれ は 思いおもい 決しけっし まし た 。
「 俺おれ は 山やま へ 帰るかえる こと に し た よ 」
「 私わたし を 残しのこし て か え 。 そんな むごたらしい こと が どうして お前おまえ の 心こころ に 棲 《 す 》 むようになったのだろう 」
女おんな の 眼め は 怒りいかり に 燃えもえ まし た 。 その 顔かお は 裏切らうらぎら れ た 口惜しくやし さ で 一ぱいいっぱい でし た 。
「 お前おまえ は いつ から そんな 薄情はくじょう 者しゃ に なっ た の よ 」
「 だから さ 。 俺おれ は 都と が きらい な ん だ 」
「 私わたし という 者もの が い て も かえ 」
「 俺おれ は 都と に 住んすん で いたく ない だけ な ん だ 」
「 でも 、 私わたし が いる じゃ ない か 。 お前おまえ は 私わたし が 嫌いきらい に なっ た の か え 。 私わたし は お前おまえ の い ない 留守るす は お前おまえ の こと ばかり 考えかんがえ て い た の だ よ 」
女おんな の 目め に 涙なみだ の 滴しずく 《 しずく 》 が 宿りやどり まし た 。 女おんな の 目め に 涙なみだ の 宿っやどっ た の は 始めはじめ て の こと でし た 。 女おんな の 顔かお に は もはや 怒りいかり は 消えきえ て い まし た 。 つれな さ を 恨 《 うら 》 む 切なせつな さ のみ が 溢 《 あふ 》 れ て い まし た 。
「 だって お前おまえ は 都と で なきゃ 住むすむ こと が でき ない の だろ う 。 俺おれ は 山やま で なきゃ 住んすん で い られ ない の だ 」
「 私わたし は お前おまえ と 一緒いっしょ で なきゃ 生きいき て い られ ない の だ よ 。 私わたし の 思いおもい が お前おまえ に は 分らわから ない の か ねえ 」
「 でも 俺おれ は 山やま で なきゃ 住んすん で い られ ない の だ ぜ 」
「 だから 、 お前おまえ が 山やま へ 帰るかえる なら 、 私わたし も 一緒いっしょ に 山やま へ 帰るかえる よ 。 私わたし は たとえ 一いち 日にち でも お前おまえ と 離れはなれ て 生きいき て い られ ない の だ もの 」
女おんな の 目め は 涙なみだ に ぬれ て い まし た 。 男おとこ の 胸むね に 顔かお を 押しおし あて て 熱いあつい 涙なみだ を ながし まし た 。 涙なみだ の 熱あつ さ は 男おとこ の 胸むね に しみ まし た 。
たしかに 、 女おんな は 男おとこ なし で は 生きいき られ なく なっ て い まし た 。 新しいあたらしい 首くび は 女おんな の いのち でし た 。 そして その 首くび を 女おんな の ため に もたらす 者もの は 彼かれ の 外そと に は なかっ た から です 。 彼かれ は 女おんな の 一部いちぶ でし た 。 女おんな は それ を 放すほかす わけ に いき ませ ん 。 男おとこ の ノスタルジイ が みたさ れ た とき 、 再びふたたび 都と へ つれもどす 確信かくしん が 女おんな に は ある の でし た 。
「 でも お前おまえ は 山やま で 暮くれ せる か え 」
「 お前おまえ と 一緒いっしょ なら どこ で でも 暮すくらす こと が できる よ 」
「 山やま に は お前おまえ の 欲しほし がる よう な 首くび が ない の だ ぜ 」
「 お前おまえ と 首くび と 、 どっち か 一つひとつ を 選ばえらば なけれ ば なら ない なら 、 私わたし は 首くび を あきらめる よ 」
夢ゆめ で は ない か と 男おとこ は 疑りうたぐり まし た 。 あまり 嬉しうれし すぎ て 信じしんじ られ ない から でし た 。 夢ゆめ に すら こんな 願っねがっ て も ない こと は 考えるかんがえる こと が 出来でき なかっ た の でし た 。
彼かれ の 胸むね は 新しん な 希望きぼう で いっぱい でし た 。 その 訪れおとずれ は 唐突とうとつ で 乱暴らんぼう で 、 今いま の さっき 迄まで の 苦しいくるしい 思いおもい が 、 もはや 捉えとらえ がたい 彼方かなた 《 かなた 》 へ 距 《 へ だ 》 てら れ て い まし た 。 彼かれ は こんなに やさしく は なかっ た 昨日きのう まで の 女おんな の こと も 忘れわすれ まし た 。 今いま と 明日あした が ある だけ でし た 。
二に 人にん は 直ちにただちに 出発しゅっぱつ し まし た 。 ビッコ の 女おんな は 残すのこす こと に し まし た 。 そして 出発しゅっぱつ の とき 、 女おんな は ビッコ の 女おんな に 向っむかっ て 、 じき 帰っかえっ て くる から 待っまっ て おい で 、 と ひそか に 言い残しいいのこし まし た 。
✦ Peek目め の 前まえ に 昔むかし の 山々やまやま の 姿すがた が 現れあらわれ まし た 。 呼べよべ ば 答えるこたえる よう でし た 。 旧道きゅうどう を とる こと に し まし た 。 その 道みち は もう 踏むふむ 人ひと が なく 、 道みち の 姿すがた は 消え失せきえうせ て 、 ただ の 林はやし 、 ただ の 山坂やまさか に なっ て い まし た 。 その 道みち を 行くいく と 、 桜さくら の 森もり の 下した を 通るとおる こと に なる の でし た 。
「 背負っせおっ て おくれ 。 こんな 道みち の ない 山坂やまさか は 私わたし は 歩くあるく こと が でき ない よ 」
「 ああ 、 いい とも 」
男おとこ は 軽々とかるがると 女おんな を 背負いせおい まし た 。
男おとこ は 始めはじめ て 女おんな を 得え た 日ひ の こと を 思いだしおもいだし まし た 。 その 日ひ も 彼かれ は 女おんな を 背負っせおっ て 峠とうげ の あちら 側がわ の 山やま 径 《 やま みち 》 を 登っのぼっ た の でし た 。 その 日ひ も 幸せしあわせ で 一ぱいいっぱい でし た が 、 今日きょう の 幸せしあわせ は さらに 豊かゆたか な もの でし た 。
「 はじめて お前おまえ に 会っあっ た 日ひ も オンブ し て 貰っもらっ た わ ね 」
と 、 女おんな も 思いおもい だし て 、 言いいい まし た 。
「 俺おれ も それ を 思いだしおもいだし て い た の だ ぜ 」
男おとこ は 嬉しうれし そう に 笑いわらい まし た 。
「 ほら 、 見えるみえる だろ う 。 あれ が みんな 俺おれ の 山やま だ 。 谷たに も 木き も 鳥とり も 雲くも まで 俺おれ の 山やま さ 。 山やま は いい なあ 。 走っはしっ て み たく なる じゃ ない か 。 都と で は そんな こと は なかっ た から な 」
「 始めてはじめて の 日ひ は オンブ し て お前おまえ を 走らはしら せ た もの だっ た わ ね 」
「 ほんと だ 。 ずいぶん 疲れつかれ て 、 目め が まわっ た もの さ 」
男おとこ は 桜さくら の 森もり の 花はな ざかり を 忘れわすれ て は い ませ ん でし た 。 然ししかし 、 この 幸福こうふく な 日ひ に 、 あの 森もり の 花はな ざかり の 下した が 何なに ほど の もの でしょ う か 。 彼かれ は 怖こわ れ て い ませ ん でし た 。
そして 桜さくら の 森もり が 彼かれ の 眼前がんぜん に 現れあらわれ て き まし た 。 まさしく 一いち 面めん の 満開まんかい でし た 。 風かぜ に 吹かふか れ た 花びらはなびら が パラパラぱらぱら と 落ちおち て い ます 。 土ど 肌はだ の 上うえ は 一いち 面めん に 花びらはなびら が しかれ て い まし た 。 この 花びらはなびら は どこ から 落ちおち て き た の だろ う ? なぜなら 、 花びらはなびら の 一いち ひ ら が 落ちおち た と も 思わおもわ れ ぬ 満開まんかい の 花はな の ふさ が 見み はるか す 頭上ずじょう に ひろがっ て いる から でし た 。
男おとこ は 満開まんかい の 花はな の 下した へ 歩きあるき こみ まし た 。 あたり は ひっそり と 、 だんだん 冷めさめ たく なる よう でし た 。 彼かれ は ふと 女おんな の 手て が 冷めさめ たく なっ て いる の に 気がつききがつき まし た 。 俄にわか 《 にわか 》 に 不安ふあん に なり まし た 。 とっさ に 彼かれ は 分りわかり まし た 。 女おんな が 鬼おに で ある こと を 。 突然とつぜん ど ッ という 冷めさめ たい 風かぜ が 花はな の 下した の 四方しほう の 涯 から 吹きふき よせ て い まし た 。
男おとこ の 背中せなか に しがみつい て いる の は 、 全身ぜんしん が 紫色むらさきいろ の 顔かお の 大きなおおきな 老婆ろうば でし た 。 その 口くち は 耳みみ まで さけ 、 ちぢくれ た 髪の毛かみのけ は 緑みどり でし た 。 男おとこ は 走りはしり まし た 。 振りふり 落そおとそ う と し まし た 。 鬼おに の 手て に 力ちから が こもり 彼かれ の 喉のど に くいこみ まし た 。 彼かれ の 目め は 見えみえ なく なろ う と し まし た 。 彼かれ は 夢中むちゅう でし た 。 全身ぜんしん の 力ちから を こめ て 鬼おに の 手て を ゆるめ まし た 。 その 手て の 隙間すきま から 首くび を ぬく と 、 背中せなか を すべっ て 、 ど さり と 鬼おに は 落ちおち まし た 。 今度こんど は 彼かれ が 鬼おに に 組みつくくみつく 番ばん でし た 。 鬼おに の 首くび を しめ まし た 。 そして 彼かれ が ふと 気付いきづい た とき 、 彼かれ は 全身ぜんしん の 力ちから を こめ て 女おんな の 首くび を しめつけ 、 そして 女おんな は すでに 息いき 絶えたえ て い まし た 。
彼かれ の 目め は 霞かすみ 《 かす 》 ん で い まし た 。 彼かれ は より 大きくおおきく 目め を 見開くみひらく こと を 試みこころみ まし た が 、 それ によって 視覚しかく が 戻っもどっ て き た よう に 感じるかんじる こと が でき ませ ん でし た 。 なぜなら 、 彼かれ の しめ殺ししめころし た の は さっき と 変らかわら ず 矢や 張りばり 女おんな で 、 同じおなじ 女おんな の 屍体したい 《 し たい 》 が そこ に 在るある ばかり だ から で あり まし た 。
彼かれ の 呼吸こきゅう は とまり まし た 。 彼かれ の 力ちから も 、 彼かれ の 思念しねん も 、 すべて が 同時にどうじに とまり まし た 。 女おんな の 屍体したい の 上うえ に は 、 すでに 幾ついくつ か の 桜さくら の 花びらはなびら が 落ちおち て き まし た 。 彼かれ は 女おんな を ゆさぶり まし た 。 呼びよび まし た 。 抱きいだき まし た 。 徒労とろう でし た 。 彼かれ は ワッ と 泣きなき ふし まし た 。 たぶん 彼かれ が この 山やま に 住みついすみつい て から 、 この 日ひ まで 、 泣いない た こと は なかっ た でしょ う 。 そして 彼かれ が 自然しぜん に 我わが に かえっ た とき 、 彼かれ の 背せ に は 白いしろい 花びらはなびら が つもっ て い まし た 。
そこ は 桜さくら の 森もり の ちょう どまんなか の あたり でし た 。 四方しほう の 涯 は 花はな に かくれ て 奥おく が 見えみえ ませ ん でし た 。 日頃ひごろ の よう な 怖こわ れ や 不安ふあん は 消えきえ て い まし た 。 花はな の 涯 から 吹きふき よせる 冷めさめ たい 風かぜ も あり ませ ん 。 ただ ひっそり と 、 そして ひそひそ と 、 花びらはなびら が 散りちり つづけ て いる ばかり でし た 。 彼かれ は 始めはじめ て 桜さくら の 森もり の 満開まんかい の 下した に 坐っすわっ て い まし た 。 いつ まで も そこ に 坐っすわっ て いる こと が でき ます 。 彼かれ は もう 帰るかえる ところ が ない の です から 。
桜さくら の 森もり の 満開まんかい の 下した の 秘密ひみつ は 誰だれ に も 今いま も 分りわかり ませ ん 。 あるいは 「 孤独こどく 」 という もの で あっ た かも 知れしれ ませ ん 。 なぜなら 、 男おとこ は もはや 孤独こどく を 怖こわ れる 必要ひつよう が なかっ た の です 。 彼かれ 自らみずから が 孤独こどく 自体じたい で あり まし た 。
彼かれ は 始めはじめ て 四方しほう を 見廻しみまわし まし た 。 頭上ずじょう に 花はな が あり まし た 。 その 下した に ひっそり と 無限むげん の 虚空こくう が みち て い まし た 。 ひそひそ と 花はな が 降りおり ます 。 それだけ の こと です 。 外そと に は 何なに の 秘密ひみつ も ない の でし た 。
ほど 経へ て 彼かれ は ただ 一つひとつ の なまあたたか な 何なに 物もの か を 感じかんじ まし た 。 そして それ が 彼かれ 自身じしん の 胸むね の 悲しみかなしみ で ある こと に 気がつききがつき まし た 。 花はな と 虚空こくう の 冴えさえ た 冷めさめ た さ に つつま れ て 、 ほ の あたたかい ふくらみ が 、 すこし ずつ 分りわかり かけ て くる の でし た 。
彼かれ は 女おんな の 顔かお の 上うえ の 花びらはなびら を とっ て やろ う と し まし た 。 彼かれ の 手て が 女おんな の 顔かお に とどこ う と し た 時とき に 、 何なに か 変っかわっ た こと が 起っおこっ た よう に 思わおもわ れ まし た 。 すると 、 彼かれ の 手て の 下した に は 降りおり つもっ た 花びらはなびら ばかり で 、 女おんな の 姿すがた は 掻き消えかききえ て ただ 幾ついくつ か の 花びらはなびら に なっ て い まし た 。 そして 、 その 花びらはなびら を 掻き分けよかきわけよ う と し た 彼かれ の 手て も 彼かれ の 身体しんたい も 延しのばし た 時とき に は もはや 消えきえ て い まし た 。 あと に 花びらはなびら と 、 冷めさめ たい 虚空こくう が はりつめ て いる ばかり でし た 。
✦ Peek